絶対読んでおくべき一冊。
エネルギー論争の盲点―天然ガスと分散化が日本を救う (NHK出版新書 356)
震災による原発事故以降、エネルギー問題は論争喧しいが、その論争の質といえば原発推進派も脱原発派も、自分の知っていることだけを根拠に、双方恣意的にいいたいことをぶちまけてるだけの感が強い。
そうなってしまう理由は、この問題の全体を俯瞰できるだけの知識もないのに、それぞれ変な使命感―イデオロギーといってもよい―をもって、ある種の宗教論争になってしまっているからだ。
特に原発推進派のそれは、なまじ反・脱原発派に比べていわゆるインテリゲンチャと呼ばれる人が多いからか、それ以外の人たちを見下すばかりか、皮肉る・嘲る態度の人たちが多い印象で、「日本の知識階級層というのはこんなに品性が(知性がではない)低いのか」とがっかりした。
確かに反原発派の人たちは、理屈よりイメージ、正確な数値より思い込みを元に論を展開する、いわゆるエコ原理主義的な人種が多いので、最初は丁寧に説明していても、いっこうにロジカルな話が出来ないそれらの人たちにイラつくのもわからなくはない。
しかし、それを引き受けて、相手のおびえ・恐れている気持ちにシンパシーをもちつつ、粘りづよく論理をもって説くのが、真の知識階級という層のノーブレスオブリージュではないのか?
そういう意味では、特にtwitterにおける原発論争というのはそのあたりの真贋見極めるためのバカ発見器でもあったといえるかもしれない。
しかし、そんな不毛な論争は見ていても、なにも建設的なものをもたらしてくれるものではない。
正直うんざりしていた。
そこで見つけたのが本書だ。
本当はどうなのか?
本書は、その議論をするために必要な基礎知識が、新書というサイズに非常にバランスよく収められている良書だと思う。
いま、このエネルギー問題に関心を持っている人は、必ず読んでおくべき一冊。
いまの便利な生活と、それを支える経済生活をを維持するには、原発が必要だ、と原発推進派は解く。
今回の事故は、古い原子炉だったからだ、新型は技術も向上し、もっと安全に運用できる―と。
しかし原発は(技術向上に伴うリスクコントロールは上がるとしても)必ず超長期間の管理が必要な、放射性廃棄物がセットで出てくる。
この広大とはいえない国土の中で、それを排出し、かつ絶対ゼロには出来ない事故の可能性を抱えたまま、原発を運用する必然性はあるのか?
それが知りたかった。
本書はそれに対し、卑近な「原発か、再生可能エネルギーか」という近視的な二択ではなく、文明論的視点から、人類の繁栄とエネルギーの利用に密接な関係があることを説き起こした上で、各論に入っていく。
こういうふうに丁寧に書いてもらえると、化石燃料をはじめとする効率的なエネルギーが、人類の人口の増減にすら大きく関わっている、ということがあらためて、はっきりとわかる。
その上で、残念ながらそういった化石燃料のもたらした人類の繁栄を、再生可能エネルギーでは、どれだけ技術革新が進んでも、そのままリプレイスすることは不可能に近いということが、事実を元に陳べられている。
(かといって再生可能エネルギーの導入推進が無駄ともいっていないことにも注目)
では原発か?というとそうではなく、原子力発電のリスクについても容認しておらず、今回の事故のように、一度事故が起きたときのリスクの大きさ、放射性廃棄物の管理の難しさから、今後の主力になることはむづかしいであろうこともはっきり述べている。
ここで出てくるのが、意外でもあり「ああやっぱり」とも思った事実―化石燃料はおそらく当分尽きることはないであろう―ということ。
オイルピーク説(今後産出量がへっていく)、というのはずっと言われてきていているが、それがかなりあてにならないことが、幾つかの例を示して述べられており、まだ百年程度は安定供給が可能であろうことが述べられている。
さらに、その際によく「問題」とされる、エネルギーの海外依存による安全保障の面も述べられており、実は「国内のみ」の依存のほうが危険で、むしろ多チャンネルで色々な選択肢を持っているほうが安心である、というのは言われてみれば納得だ。
(ここに過去の飢饉の例をだして説明してあるのは、目からうろこだった)
要は「原発か再生可能エネルギーか」という単純解など有り得ず、各種のエネルギー源を、そのリスクとメリットを考慮のうえ、バランスよく配分していくしかない―要は「多様性」という、この世界のある種の原理に落ち着いてゆく。
そして、これまでの明らかに偏重されていた、原子力発電のウェイトを置き換えるものとして、天然ガスのコンバインドサイクルによる利用が述べられており、天然ガスのメリット(エネルギー効率・環境面)とデメリット(運用面)を述べた上で有望かつ、日本ではこれまで天然ガスのウェイトが低すぎたことため、逆に、今後まだ引き上げる余地が残っていることを示している。
とにかく、本書を読んでみて思ったのは、これだけの問題なのに我々はあまりにも、その土台となる知識を知らなさ過ぎた、ということ。
ここで似非インテリゲンチャは「それぐらい自分で調べろ、ググれカス」とでもいうのだろうが、それは違うと思う。
個人的には、こういった論争をするために必要な基礎情報と論点を、わかりやすく整理して、社会に提示するのがマスコミ・ジャーナリズムの仕事だと思うのだが、それが見事に働いてない・機能していないのが、我が国におけるこの問題の一番の原因だと思う。
インテリだけがわかってればいいんじゃないんですよ、みんなが知っている必要がある。
もちろん非インテリ層側も、理解しようとする努力は必要だが、日々普通に生活している人たちが、血眼になって勉強しなければわからないレベルでなく、少しの努力で理解できるところまで咀嚼し、方向性の違う幾つかのフレームを提示するところぐらいまで持っていくのが、ジャーナリズムやインテリゲンチャの仕事だろう。
(すべてのことに、皆が自分で調べて専門知識を持たなければいけないのなら、世の中に”専門家”なんていらなくなるじゃん、本気でいってるならその人こそ”大バカ者”だよな)
そういう意味では、反対意見に対し皮肉や揶揄であざけり、罵詈雑言投げて自己満足しているバカどものいうことは、両派とも傾聴に値しない。
それだけは、はっきりいえると思う。
はっきりいうと、たぶんそんなオナニーに付き合ってる暇ないのだ。
どうやってこの難しい状況のなか、今後の社会像を描いていくのか―。
その”建設的”な議論をされたい方は、読んでおいて損はない、本来の”プロ”の―インテリゲンチャの仕事たる一冊だったと思う。
※本書では、原発は完全には無くせないだろうとあるが、個人的にはできるだけ無くしたいな。
技術の維持の必要性(すぐ廃炉できないもののメンテナンス等)はあるだろうから、一桁程度の数でミニマムに運用という形が望ましいと思うんだが・・・。