「円安大転換」後の日本経済/村上尚己

標準

あまりにも面白かったので、買ってきたその日に2時間半ほどで読了。

「円安大転換」後の日本経済 為替は予想インフレ率の差で動く (光文社新書) [新書]
村上 尚己 (著)

前著『日本人はなぜ貧乏になったか?』と同じ内容を、今度はさらに細かく、順を追って書いている印象。
この2冊を読むことで、バブル崩壊以降の日本の景気動向に関する俯瞰的な概要を把握できると思う。

社会人のみなさんなら、内容に対する首肯の是非はともかく、必ず読んでおくべきだろう。
(オレは日本の景気なんぞ知らない、という方なら別だが)

両書に共通するのはある種の「怒り」―義憤のように感じる。

常々、日本はマスコミがマスコミ本来の機能を果たしていない、機能不全に陥っていると自分は感じている。
本書はそれに加えていわゆるそれらにコメントを寄せる「識者」と呼ばれる層のいい加減さを1章割いて取り上げている。

ガラパゴス経済―略してガラ経―いい得て妙だと思う。


(以下は余談)

本書では、テーマ的にキーとなる日銀に責任の所在を明確に義務付けろという主張が出てくるが、それに限らず「責任」のあいまいさ、そしてそれ故に失敗からのフェアな「失地回復」機能が失われていることが、いまの日本の全ての組織の病巣ではないかと個人的に感じる。

要は皆、内部倫理しか機能していない組織内での「失敗」=「(組織内での)社会的な抹殺」を恐れて、身がすくんでしまっているのだ。

そしてそういった組織内倫理のシステムは横にもひろく社会的に共有されているので、業種や業界を越えても社会的な抹殺バイアスがかかりやすい。

結果、「失敗」=「社会的抹殺」を恐れて誰も言うべきときに言うべきことを言わない、責任を取るべきものが責任を取らない。
みんな責任の所在を明確にするのが怖い=社会的抹殺が怖い、なので

「(みんな怖いと思ってるから)責任もぼかしておいたほうが、自分の番になったときのこと考えると良いよね」

で、責任を誰も追及しないのだろう。

まだ全部読めていない+その是非の判断し兼ねている安冨歩氏の著書で「名を正す」ことの重要さ(言葉を言葉本来の意味どおりに使うこと)の重要性について書かれていたように記憶しているが、それに共通するものを感じる。

失敗は失敗なのだ。それを失敗したのに「失敗してません」といってはいけない。

そういう、幼稚園にあがる前の子供ですら教えられるであろう「あたり前」のことが、大の大人の社会で「あたり前」として機能していないことが、この国の病巣の根幹にあるのだろう。

つくづくそう思う。

コメントを残す