昨年末、出版されていた時点で購入。
近藤先生がたっぷり入り込んで描いているからだろうけど、先生の安吾原作モノはどうして毎回こう凄いのか・・・。
『戦争と一人の女 [コミック]』
原作である『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』をベースに、1本のストーリーラインを持った作品として再構築されている。
安吾自身がモデルと思しき脚本家の男(野村)と、かつて女郎であった過去を持ち、妾として落籍れ酒場のマダムであった女。
女は誰とでも関係する淫蕩さを持っていたが、その過去から身体の喜びを感じない体質だった。やがて戦争が始まり、戦争という名目を言い訳にするかのように二人は一緒に暮し始める、いつか戦争の終わりとともに来るであろう別れを信じながら・・・・・。
今回、本書を読んでからはじめて安吾の原作も読んでみた。(青空文庫)
本書あとがきによると、元々がGHQの検閲によってかなりずたずたにされていた作品らしく、青空文庫版がどの程度、本来の作品としての純度を保っているかは知らない。
ただこの近藤版と違って、原作では『戦争と一人の女』は男からの視点、『続戦争と一人の女』は女からの視点で明確に書き分けられている。
この近藤版は、その両者を着物の糸を解くようにしてほどき、あらたに一つの着物として織りなおしたような印象だが、どちらかというと女側からの視点にウェイトが置かれているように思う。
逆に原作での『続戦争と一人女』のほうは、女性視点ではあるのだが、その根底には作者である男としての安吾の視点が透けて見え、ある意味これだけ本能に忠実な女であるにもかかわらず、そのロジカルな文体がアンビバレンツに感じた。
本能に忠実な女、と書いたが、実はこれは淫蕩さ、ということを指し示しているのではなく、生きること=遊ぶこととして、自分の全生命を励起させようとしていることと自分は読んだ。
退屈なことは大きらい、それゆえ、自分の命をぎりぎりに晒してくれる戦争というものに魅入られていく、そういう感じか。
淫蕩であるにもかかわらず冷感症である、というアンビバレンツな設定よりも、実はこの素直な貪欲さの様なものが、本作でのこの女にある種の聖性を与えているように感じた。
世間という常識からみれば不純の塊に見えるが、その実自分の欲望に素直という意味で純粋なのだ。
そういう意味では、女に魅かれつつも、いまだ常識のくびきに捉われる振りで、いずれ女が去っていくだろうことに予防線を張る男のほうが、はるかに女々しい。
それでも戦争という溶鉱炉の中であるが故か、本来溶け合うはずのない男と女は徐々に交じり合ってゆく。
そしてそれは終戦を前にした空襲でピークを迎えていくが―。
別れの予感を二人それぞれが感じていた。
しかし二人が最終的にどうなったかまでは書かれていない。
原作を含め、まだ何度も何度も読んでみて、その度に分かったような気になったり、新たになにかを見つける作品になるんだろうな。
安吾作品はどれも、結果的にそれだけの複雑さを含んでいるように思う。
そしてそこを近藤先生のやわらかい描線と、あらたに掛け合せられるその視点で、より艶やかさを増す。
安吾の文体の持つ男性性と近藤先生の持つ女性ならではのセンス、その掛け算はほんと素晴らしい。
戦争という大きな官能の炎への酔いと、その寝覚め。
それでも男と女は生きていく、いかざるを得ない。
その炎に溶かされた二人は、このあとをどう生きていったのだろうか。
そこから突然二人が放り出されたように、読者である我々も、ぽーんとその寂寥感に放り出されるようにして、物語は終わる。
うーん、書きたいこと、感じたことは山ほどあるんだが、上手く言葉に出来ない・・・。
※付記
本作品を読んでなぜか一つ連想したのが、山本周五郎の『おさん』。位相は全くの正反対かもしれないが、なにかその根っこの部分に相通づるものを感じる。
どちらの作品も、女のほうがある意味まじりっけがないという意味で、純粋なんだよな。
※2022/06 標題の表記を統一、リンク切れを修正