太鼓衆一気vsマクベス再び

標準

前回も見た日野晃氏が関わっているマクベスをもう一度やる、ということのようなので観にいってきた@埼玉・彩の国小ホール。

行きのJR埼京線がただでさえ寒いのに、車内冷房かけやがってもう最悪。
バカなの?死ぬの?と罵りたい気分を我慢して与野本町まで。

会場は埼玉・彩の国劇場。複数のホールがある新目の綺麗な劇場でした。
開場とほぼ同時についたが、お客さんもうほどほどいる。

で、早速入場したんだが、受付の案内が素人―というか全然気が効かない。

チケットのほかに整理券いるらしいのにそれを説明する声を出す人が誰もいない。
この時点で興行としてダメダメだよなあ・・・。

見ると受付では取り置きチケットがたくさん用意されている。
この手の興行ではよくあることだが、日野氏の名前というより出演者が縁故で集めたお客さんが多かったんだろう。

だから自分たちの舞台というより、お呼ばれな感じだからそういう気が効かない?

個人的にはこういう客扱いをするのは素人興行だと思っているので、大きらいなんだが、さすがに各スタッフの方自体は、皆さん品はよく丁寧ではあるので不満は腹に収めることにする。
(なんでこんな基本的なことに気を配れないのかな、もったない)

舞台となる小ホールは綺麗で十分な広さ。
半円形で正面左右の三面だが、正面の席がほぼ一杯になるぐらいしかお客さんはいっていない。

ビフォアトーク。司会の方と日野氏と太鼓衆一気の主催者であるご子息・一輝氏。

さすが、太鼓叩きだけあっていい体格されてる。
日野先生は小柄な方なので、余計に大きく見えるのかも。

ただここで比べるのもなんなんだが、それだけ体格差あるのに声の通りがぜんぜん違うのな。
(力入れてないのに声が通る)

このあたりが”年季の差”ってやつだろうか。

一幕目、太鼓衆一気。
和太鼓、ではあるが伝統的というより今風のユニット、と自分には感じられた。

特にリズムにその傾向が顕著で、凄くキャッチーなリズム。
これは良くも悪くも若い人や欧米では受けるのではないかと思った。
(ただ、欧米でも本当に深いレベルで和太鼓を鑑賞している層は、そういったものとは違ったものを求めてくるだろうが)

全体的に楽しめたんだが、ちょこちょこと気になるところはあり。

まず1曲目から、フロント下手の方の腰のすわりが悪いように見えて、ずっと気になってたら最後でバチ飛ばしてたw

というか自分がやれ、といわれてできるわけでもないのに講釈垂れるのは下の下を承知で書くのだが、和太鼓叩くときってあんなに腰が後ろに引ける姿勢になるのかな?

舞台やや斜めから見てたというのもあると思うが、けっこうそういう姿勢の人が多いのが気になった。

いちばん個人的に良かったのは意外なことに冒頭2曲目。
この曲のピークの部分は自分的にも盛り上がった。

3名がフロントマンとして叩いていたが、おそらく上手の方がいちばん技量があるように感じた。(その方とメインの一輝氏で2曲目だった)

ということで―自分がヘンに耳が肥えてるのか、頭でっかちなのかもしれないが―全体的に良くはあるんだけど、いわゆる切迫感やスリルは感じなかった。

さらに客席最前面のところに、小さな女の子連れのお母さんがいて、その女の子が落ち着かない。

そのことはいいんだが、最善面の太鼓と距離2メートルあるかないかで、もしもの事考えたらおちおち聞いてられんかったというのもある。
(そのあたりの顧客誘導ないのもなんかなあ)

逆に言うと、そういったことが気にならないほど引き込まれるところまではいってなかったということか。厳しいようだけど。

2幕目マクベス。

基本前回の吉祥寺のバージョンアップ版とみた

フロントの3人の方はやはりベテラン中のベテラン―プロフェッショナルだけあって素晴らしい。

自分はこういった舞台を見慣れているわけではないので、決まりごとも約束事も知らない。

こういったコンテンポラリーダンス?というのは一つ間違えるとその動きがギャグにしか見えなくて素人は笑ってしまうもんだが、このお三方はやはりその動きや挙措に迫力あって引き込まれる。

バックダンサーの通奏低音のような声と、それ自体が舞台装置のような動きも全体の雰囲気を作り上げていて、後になればなるほど文字通り舞台として一体化しているように感じた。

こうなると、あとはそこで展開されているうねりのようなものに巻き込まれて、舞台を見入るしかないのだが、前回と同じくクライマックスでバックダンサーたちが竜巻になる箇所、ここでちょっと”切れちゃった”ような気がする。

もちろん舞台の上―主演の3名の緊張感はそのまま続いているんだが、そのバックダンサーの動きがなんか自己満足チックに見えて「あーこれがレベルの差か」と、そこだけ見てるこっちの緊張感から剥落していった感じ。

ここは「狂う」シーンだと思うんだけど、なまじ「縛り」がないからほんとうに野放図に狂っちゃってるのか。

もちろんその「狂い」も全身全霊で狂えば、演出の意図通りになると思うんだけど、酷な言い方するとそこまで「狂い切れて」ないんだろうな。

そういう意味では逆になんらかの「縛り」があったほうが、水道のホースを絞るのと同じで「狂え」たかもしれない。

ただそれは意図するところでは、ないのかもしれないけど。

よって舞台全体としてみると、凄さを感じつつも、まだこういう小ざかしいことを客の側が感じられる余裕が残ってる、ということでもある。

その余裕を奪ってほしいんだけれどもな。

ということで次回があるなら、そこに次回は期待したい。

舞台、という観客と演者が双方いてはじめてその空間が成立する表現としては、目指しているところは間違いなく圧倒的に正しい。

なのでこの試みは凄く意義のあるシリーズだと思っている。

是非もう一歩踏み込んだところを見てみたい。

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