なんか試写会当たったので行ってきた@有楽町よみうりホール。
NAVY SEALS
米海軍特殊部隊NAVYSEALS全面協力で多くの装備が本物を使った、という触れ込みの一本。
当然ながらストーリーは期待せず観にいったわけだが、そこはまさに予想通り。だが、別の意味でいろいろと考えさせられる映画であった。
イスラム原理主義と結びついた麻薬組織を潜入操作中だった、CIA女性エージェントが拉致された。NAVESEALSの隊員たちは束の間の家族との休暇を追え、女性エージェントの奪還、ひいては米国内に自爆テロを仕掛けようとするテロリストのネットワークを、文字通り世界規模で捜査・殲滅していく―。
単純にみれば、アメリカならではの清々しいまでの自己肯定的な映画ではあるのだが、売り文句にある”すべてが本物”という部分が、逆説的にアメリカの嵌っている深い罠を感じさせずにいられなかった。
特殊部隊、とあるがその”本物”の兵器の迫力と規模をみると、これはもう作戦なんてレベルじゃない、完全に戦争。
というか、こんな装備―近代化されているのはもちろん、十分なバックアップと事前の諜報の凄まじさ―相手にまともな神経の持ち主なら、一戦交えようなどという気は微塵も起こらないだろう。
(元運用畑の人間としては、このバックアップの厚さに思わず溜息が出ましたよ、ええ)
このあたりさすが”本物”の迫力だった。
だが、しかし―である。
そんなとんでもない装備と練度のSEALS相手に麻薬カルテルやイスラム原理主義のテロリストは怯まないのである。戦う、徹底的に戦う。
なぜか―?
そう考えたときに考えたのは、彼らには元々希望なんてないんだな、ということ。
絶望の底にいるものには、恐れなんてない、あるのはただ憎しみと恨みのみ。
そしてそういうところへ同じく貧困のなかで”希望”を失ったほんとうに貧しい人たちが巻き込まれてゆく。
装備が徹底して”本物”、それゆえにその銃口の向かう先の背景、そしてその社会的構造も、ある程度”本物”に成らざるを得ない。
結果、武装の凄さ、その”本物”度合い―それが凄ければすごいほど、その絶望の”本物”具合も一緒になってたち現れてくるのだ。
まただからこそ、その絶望の根源である”帝国”=アメリカを支える、最精鋭の兵士たちの凄さ、そしてそれを支える”システム”の堅牢さというのが良くわかる。
収奪する側ではあるが、であるが故にその構造は徹底しているのだ。
そのシステムだけをみれば、これほど素晴らしいものはないだろう。
帰属意識と誇り・名誉―そういった現場に”報いる”仕組みを徹底して作り上げている。
現在の米国と、米国発の金融資本主義というものはこの世界を席巻しているが、それは決して祝福されたものではない、と個人的には思っている。
だが、そういった米国の覇権というのは、こういった徹底して洗練され、鍛え上げられ、ある種の理念すら持った組織によって支えられているわけだ。
そら、こんな国相手に軍事・経済問わずに戦おうとするのなら、よほどの覚悟と徹底した鍛錬、そして確固たる哲学を持った組織作りが必須だろう。
(これは優秀な組織には全て共通するものだと思う)
そう思う反面、これだけ徹底しているからこそ、”奪われた”貧しい人々もそれに比例して徹底せざるを得ないんだろうな、とも思う。
貧しさや報われなさ、という人間の尊厳に関わる部分を甘くみてはいけない―最近巷を騒がすニュースにかこつけるわけではないが、そこを甘くみている人間が、最近の日本人には多すぎる。
要はそこを甘くみれるほどには、ほとんどの人は中途半端にしあわせだし、頭で考えはしてみても”感じ”はしていない、そういうことだろう。
ある種の感覚が麻痺しているのだと思う。(含む自分)
この映画の中に書かれているある種の”徹底”ぶりが、却ってそんなことを思わせる、意外とものを考えるヒントをくれる映画だった。