出版時に買ってはいたんだが、当時まーったく食指が動かず。
で、この春先からふと風向きが変わって、合間見て、手にとっていて。
先日来の鼻風邪で行動不能をいいことに、のこり全巻読破。
いや、平井御大おそるべし。
月光魔術団
校内マフィアがあたり前のように存在し、バイニンやバイシュンはびこる博徳高校の”独り生徒会長”とあだ名される鷹垣人美は「犬神明(メイ)」と名乗る転校生、ライオンヘアの美少女と出会う。
二人の運命的な出会いは、周囲の生徒たちや教職員を巻き込んでゆき、社会は及ばず電脳空間、終には夢を介して並行宇宙までを変えてゆく。
現時点での”ウルフガイ”最新シリーズ。
(1996~2002年発表)
出版当時(90年代末~2000年代当初)せっせと買ってはいたんだけれど全く読む気が出ず、ほっておいたら、シリーズ途中で版元が出版部門撤退?、3期目物理出版なしのコンボを喰らい、さらにうっちゃらかし決定。
で、昨年ふと当時限定販売されていた3期目の書籍版を手に入れることができて、先日何かの潮目が変わったのか暇みては読みはじめた。
作中の登場人物の意識がめまぐるしく入れ替わり、一つのベクトルへの深入りを拒み、そしてかなりエロティックな描写がふんだんに登場する―つまり『ボヘミアンガラスストリート』以降の平井作品の特徴が顕著に出ている作品で、読む人をかなり選ぶ作品。
しかし、最後まで読み通してみてはっきりわかったが、伊達に「ウルフガイシリーズ」ってついてない、内容的には拒む人も多いと思うが、あきらかに正当な続編。
(『犬神明』以降にある意味リンクしている)
個人的には、この路線の平井作品も好きなので、楽しく読めた―というか読み始めてからの吸引力がハンパじゃないのよなあ。
ただ、平井作品を語る際のキーワードである”言霊使い”という特性がレベルアップしているからなのか、はたまた後述の理由なのか、読者の登場人物への感情的な深入りを、結果的に拒むかのように、本作の主人公・鷹垣人美の心理状況は、かなりめまぐるしく変化する。
この点、それ以前の平井作品と対照を成すようで、もの凄く興味深いのだが(これまでの特徴はある特定のキャラクターへの圧倒的に耽溺できることだった)、これはこの変化が’95年以降におきていることと無縁ではないと思う。
理由はどうあれ以降の平井作品の多くは、そのキャラクターが圧倒的に魅力的であるにも拘らず、状況展開が読者が想定できない―時には心理的な抵抗すら覚えるような―めまぐるしい展開をすることによって、”ひとつところ”へ熱狂するのを巧妙にそらし続けているように見える。
(もちろん意図にではなく”無意識に”だろう、なんせ言霊様のお筆先なのだから)
このことは作中にある”悪魔はジョークを解さない”ということばが示唆することと併せて、ものすごく重要だとおもう。
もちろんこれは、以降の作品でより顕著になってくるトルテック呪術の概念の影響も、大きいのだろう。
(むしろこちらが主か?)
どちらにせよ、頭がスクエアで固い人は、このシリーズは多分読みきれない。
そのあたりがまさしく”トルテック的”なんだろうが。
とまあ、いろいろ理屈をつけたが、やはりなんといっても平井作品の最大の魅力はそのキャラクターたちの活き活きとした個性なわけで。(伊達にキャラクター小説の元祖といわれているわけではない)
登場する女の子たちが、それぞれ魅力的で、悪役的に振舞うキャラクターさえも結果的に許容してしまう、主人公・人美の懐の深さよ―というかすけべえなだけか(笑)。
(作者が登場人物たちとの心理的なリンクが強すぎて、次作へつなぐまでしばらく七転八倒したというのも良くわかる)
そして上述のようにエロティックなシーンがかなり多い作品なんだが、あまりいやらしく感じないのは、熱狂を避けるように次から次へと意識が切り替わっていくことと、イラスト担当の泉谷嬢の線が女性ならではの潔癖さを保っているからだろうか。(例えるなら、トータルとしてなんとなく桂明日香作品的な雰囲気といってもいいかもしれない)
また、文中一種の艶笑譚だ的な記述もあったが、そういう側面もあると思う。(もちろんそれだけではないが)
個人的には、畑中純氏の作品のそれと通づるモノがあるように感じた。陰湿でないのである。
(それは同じく文中に一筆されているように「そういった行為自体が目的=ポルノ」ではないということである)
ただ、いきなり読むと面食らうだろうなあ、普通の人は。
また個人的には、主人公・人美のラストシーンがもの凄くよかった。
らしい、というか、この明るさ・慈愛の深さというものが、人の心の奥底にある暗さを浄化するというか。
短いシーンなんだけど、これは出色だった。
読んでいる間は気付かなかったけれど、最後まで読んでこのラストシーンをみると、ちょっと『アルジャーノンに花束を』を思い出させる。
記憶、ではなく遺伝子(DNA)としてのそれ、というか。
(あ、だから第二期が『ウルフガイDNA』で第三期が『幻魔大戦DNA』とDNAがタイトルについてたのか)
ということで、おそらく「少年ウルフ」的なタイムラインとしては、かなりそれまでの作品を回収・収束させている一品。
(なのであの人はいうに及ばず、あの人やあの人や、なんとあの人まで出てきますw)
ウルフガイ絡みとしては、あとは例の「deepトルテック」のみ・・・かな?
※現状、本シリーズを全巻確実に入手するのはe文庫の電子版が確実・・・か。
1期、2期は紙媒体が途中中断、ということもあってオークションなどで比較的まとまって入手はしやすいと思うが、3期に関してはかなり出物が少ないうえに、完品となるとけっこうな値段になる。
iPadなどがあれば、e文庫でPDF版を買うのがオススメのような気がする。
一部あとがきなどによると、紙媒体では書かれていない(オミットされた)シーンや、作者による電子的な注釈もあるそうだ。(現物確認してないからなんともいえんが)
個人的にはiPadで長編小説を読む快楽を知ってしまったwので、ちょっと後悔している。
最初からPDF版で全部揃えときゃよかったかも。
あと蛇足ながら、平井作品の通例によって、最初主人公と思しきメイは途中で”消失”してしまう。
しかし本作の面白いのは、本当の主人公・人美のなかに、メイ的なものがあって、その”境界”の曖昧さを感じ取れると、これまでの作品とは違った貌が見れるかもしれない。
個人的には、人美さんの伝法な個性が後半に行くにつれて、メイのそれを上回ってたので、そこが面白かった―最後まで人美さんは人美さんだったが(笑)。
こんな娘身近におったら楽しいだろうな、ただ次から次へと騒動起こって大変だろうな(笑)。
もっともこの点―”トラブルメーカー”であること―は、やはり”ウルフガイシリーズ”の主人公らしい。
そういう意味で、どんなにブッ飛んでいても、本作は間違いなく正統なウルフガイシリーズである。
※2015/2/1追記
先日の平井先生の訃報を受けて、先生の後期作品の簡単なガイドを作らせて頂きました。よろしければご参照ください。
※2022/06 標題の表記を統一、リンク切れを修正
度々こんにちはー。
興味はあるシリーズなんですが、シリアス系平井作品が好きな私としては少し抵抗が・・・。最近はこのあたり、ブックオフとかでシリーズ揃ってみかけます。(ボヘミアン・・・とかも)
いつか気分が変わったら読んでみようかな。
あ、どもどもこんにちはー。コメントありがとうございます。
うん、たしかにシリアス系平井ファンには積極的にオススメできません、この作品は特に(^^;)
けど・・・出てくるんですよ、西城さんと・・・その娘さんがw
ほかにもあれやこれや(以下略
個人的には前にも書いたかもしれませんが、『ボヘミアン~』をリトマス紙にされるといいと思います。
これ読んで読後感悪くなければ、以降もいけるかと思います。
以降でも唯一シリアス系・・・としてインフィニティシリーズもあるんですが、良くも悪くもボヘミアン以降の平井作品らしくフォーカスを絞りづらい印象です。
ただこの作品は一般の文庫で出ているので比較的手に入りやすいかも(分厚い上下巻)。
個人的には本て”縁”のモンだと思ってまして。
「読むべきときが来たら読めるようになってる」
個人的にはそんな感じがしてます、ハイ(^^;)
本作は最後までまだ読んでないのですが、まずは嫌なことから先に書いておこうと思ったので、読了前に感想を投下いたします。
で、具体的に「嫌なこと」って何かというと、純粋な作品の出来に関する感想ではなく、作中や後書きに表れる平井和正氏の社会に対する不満に対する共感などについてです。
作中でマスコミ、特に朝日は名指しで批判していましたが、本当に日本のマスコミは悪事をなしてもだれにも責められないからやりたい放題ですね。
平井和正作品に結びつければ、アダルトウルフガイに出た巨大ゴキブリを彷彿とさせます。誰からも嫌われる迷惑な存在なのに、地球のあらゆる生物が死滅してもこいつらは多分生き残るであろうという、嫌なしぶとさがあります。
よくネットによりマスコミ会社の重要性は減じたと言われていますが、ネットがソースの情報というと嘲笑の的になる風潮はまだありますし、カウンターになりえているとは思えません。大手マスコミに日本はいつまで振り回されればならないのか・・・
続いてはマスカレードナイツについて。犯罪者にロクに立ち向かえない日本及びそういう存在を擁護する人権派とかいう連中に対する不満、それがが形になったのがあの現象だと思います。
現実的にあのような集団が現れれば混乱が起きるというのは分かりますし、作中でもそれは指摘されてますが、逆に言えばあのような非現実的な無法者でないと悪の天敵たりえなくなったという、社会システムにも問題があると言えそうです。
また作者の不満とは別口になりますが、やはり昔と比べて表現に規制がかかってるのが残念でなりません・・・
アダルトウルフガイの頃は大っぴらではないけど学会を悪しとする犬神明のモノローグがあったのに、この団体は伏せ字でマトモに表現できず、昔は頻出した気違いという単語も本作ではやはり伏せ字扱い(幻魔大戦DNAになってから少しは使われましたが)。
平井和正作品に限らずですが、古い作品の表現の自由さを見ると、あの頃は良かったんだろうなぁなどと、当時生まれてすらいないのに思ってしまいます・・・
一連のウルフガイシリーズを読んで思ったのですか、作者の社会への不満の描写の濃度は、月光魔術團・アダルトウルフガイ・少年ウルフガイの順と、作風のシリアス度と反比例になっていると思いました。
これはあまりシリアスな作品で現実的な問題を取り扱うと、エンターテイメントにならなくなるという、作者側の配慮なのでしょうかね。
ちなみに少年ウルフガイでも白人至上主義という問題を扱っていましたが、それこそ白人がのさばっていた当時の日本を知らないため、社会問題であるという実感がイマイチわきませんでした。今の日本人からすれば、虎部隊の生国の中華思想の方がよっぽど問題ですし。さらに言えば、白人社会特有の問題である「白人屑」についてとなると尚更です。こういった存在がKKKのような組織の温床になると頭では分かっていても、やはり実感が・・・
以上ネガティブな感想失礼しました。毒は最初に処理しないと、「純粋な作品の感想」の純度が下がると思い、まずはこのような感想を投下することにいたしました。
物語についての感想は全巻読み終わってから投下したいと存じます。
コメントありがとうございます。
全体的に今回書いて頂いている内容は自分も同感するところです。
ただ、個人的にはこのあたりは、平井先生の年齢や社会的地位のこともあるのかな、と思いました。
もともと平井先生の作品はこういったある種の義憤のようなものは通奏低音として全作品にあるように思うのですが、若いころは当然社会常識としての保身的なものからなかなか自由になれなかった部分もあったのではないでしょうか。
それは決して責めらるべきものではないですし、当然ご家族もいらっしゃったわけですからね。
(その状態でも『狼男だよ』の改竄事件などでは徹底的に戦われたりしてるわけです)
しかしこの月光魔術團前後というのは、もうそういったしがらみの残滓からも解脱して「本当に自分自身が楽しいと思える作品」を目指されていたのではないかと。なので腹の立つことはストレートに表現するし、かわいい女の子は徹底的にかわいく書く(笑)、そういった境地に入られてたんじゃないかな、と愚考する次第です。
>作者の社会への不満の描写の濃度は、月光魔術團・アダルトウルフガイ・少年ウルフガイの順と、作風のシリアス度と反比例になっていると思いました。
これは面白い指摘ですね。
逆に言うと、作品がシリアスである、というのはそれだけまだ社会に対しての希望を持っていたためシリアスにならざるを得なかったのかもしれません。
希望や期待を持たない社会に対しては、そんなに深刻に自分との関わり合いを考えなくてもよいわけですし。
なのであとの作品になればなるほど、社会の酷さの描写に反して主人公たちとその周りのキャラクターたちが輝いてくるのではないかと思います。いわばクソみたいな世の中にあって、それが作者とキャラクターたちにとって唯一「真の世界」なわけですから。
>日本のマスコミは悪事をなしてもだれにも責められない
これは実は半分だけ正解のように思います。なぜかというと「だれにも責められない」=「だれも責任を取らない」というのが今の日本社会全体の大きな特徴だからです。だれもあれほど甚大な原発事故の上での人為的な不備に対していまのいままで刑事責任問われていないですよね?そういうことです。
(いわばその濃縮したような存在がマスコミでしょう)
逆に言うと「だれも責任を取らない」故に「責任を取らせる=社会からの抹殺」となって敗者復活を挿せない仕組みになっているのが今の日本の世の中です。当初はこの世の中を良くしようと志を抱いて官僚になった若者たちがなぜ皆が皆ミイラ取りがミイラになるような状況に陥っているのかもこのあたりにあるような気がします。
(そしてそういった傾向は社会全体でも不寛容さの拡大という形で表れていると思います)
官僚の特徴の一つとして「無謬性への絶対信仰」のようなものがあるように思いますが、これぞまさに「責任を取らない社会」故の「失敗を許されない・許さない社会」の象徴でしょう。
この一点、「ちゃんと責任を取る」と「敗者復活ができる」社会が手に入れば、日本はずいぶんと風通しのよい社会になると思うのですが。
まず前回と同じくネガティブなことから先に書こうと思いますので、純粋な作品感想も批判的な内容から失礼します。
月光魔術團はいわゆる雰囲気系?とか幻想文学言われる要素もあったと思ったのですが、平井和正という作家はそういった作品を作るには「現世の人」でありすぎるのではないか、ということです。
月光魔術團では色々な不可思議な現象が起こり、その多くは謎が解明されず(主に人美がそれらにかかずらってる暇がない&マジに相手せず放置したためw)に終わりましたが、それらに光を当ててほしかったというのが本音です。
これも他のこの手の作品なら「ま、そういうモンか」で済ませられます。というのもそれらの作品は、例えば幻想的なビジュアル(文章により想像を喚起させられるもの含む)であったり、派手なアクションであったり、怒濤のテンポのためなど、言わば作品の雰囲気に押し流されよく分からん点があっても許容できます。
ただ本作は、雰囲気系の作品というには実社会に対する批判がされているため、読んでいる側としてはどうしても現実感覚が抜けきれず「作品の雰囲気に押し流され」とならず、細かいところが目についた次第です。
また、「出来事の核心に触れてない会話」や、エロシーンが多すぎてテンポが悪いのも気になるところ。これらを削れば上記「解明されなかった出来事」についてもページを使えたんじゃないかと思いました。
エロシーンについてですが、私の股間は反応しませんでした(笑)
これは単純に年の問題で、今更あのくらいの描写では何も感じないというのが正直なところですw
その面においてはヤンチャン版ウルフガイの方が優れていたと思います。あの漫画の唯一の幸せなエロシーンである、青鹿先生が犬神明を押し倒す場面ですが、小さなコマで子宮がうずいてるところが描かれてました。このコマから犬神明とヤりたくなって、それどころか子供を宿したくなったんだろうな、と妄想してしまいましたw さらには、後にトラウマにより性的不能気味になっていたことも判明するため、この発情描写は意義深いものがあると思います。
ヤンチャン版は上記一コマでこれだけ連想(妄想)できたくらいなのに、月光魔術團のエロは言葉を使いすぎかな。あとアダルトウルフガイとの対比でも述べましたが、濡れ場の数自体も多すぎかと。まぁ、エロ描写は直接的なビジュアルが大きなウェイトを占めると思いますので、「百『文』は一見にしかず」とばかりに活字が分が悪いのは仕方ないことかもしれません・・・
あとエロに関することでいえば、にーなやリーミンのように作中明確に筋肉質と書かれてるキャラが、イラストだと普通の女の子みたいな体型だったのも不満点。女は華奢な方がいいんじゃないかって?私は(程度にもよるけど)マッスルレディーが好きなんですw 変態性癖の告白みたいでアレですが(^-^;
まぁマッシブな女性が(主にフェチ的に)市民権を得たのは割と最近のことなので、あの当時はああいう絵に描かれたのもしれません。泉谷氏が作中描写通りに描いても、編集から待ったがかけられたりして。
仮に今に月光魔術團が漫画化されれば筋肉質に描かれるかもしれませんが、狼の怨歌すら開始の予定はない状況では夢のまた夢・・・
作品全体については以上で、個々のエピソードについてはまず、にーなと蝮見の扱いについて。
まずにーなの改心の原因がメイに舐められただけというのはあまりにもインスタントに感じました。個人的には「地獄の蜷川」は原作羽黒やアイスの律子と同程度の悪党に思えましたので、もっとシビアな改心・反省描写がほしかったです。前シリーズでの西城やエリーの改心・浄化の経緯は丁寧に描写されていたため、この点は残念でした。
蝮見は逆にあそこまでボロクソにしてやるのは可哀想に思いました。この男は過去のにーなに比べこれまでの行状の描写が少なかった(多分平井先生はこんなののためにそこまで尺を使いたくなかったのでしょうw)ため、そこまで悪党に思えなかったことと、メイ化した人美によりSMじみた(笑)懲罰をされ改心させられたのだから、ベロキラプトル転生の際に性格が改心前に逆戻りっていうのはあんまりじゃないのと思いました。これが指輪物語のゴクリのように改心しきれなかったのであれば、かわいそうだけど悲惨な最後もやむなし、となるんですが、蝮見の場合明確に改心してましたので・・・
改心描写というのはキャラにとって見せ場だとも思いますので、蝮見のようなどーでもいい奴でなく、にーなにその場を設けてやったらよかったのでは?と思いました。
人美の最後の変身はニシザキってのはこれまでのに比べると役者が落ちるかなー。特にパーミター変身のあとだとなおさら。いや、話の途中ならともかく、最後に持ってきたことが・・・
どうせ最後ならBEE・リーミンと同時に接触(笑)して、「二人に似てるけど何か違う誰か」に変身するくらいのサービスがあってもよかったかな、と。まぁ平井先生がその手の読者サービスめいた手法は取らないとは思いますがw
長くなりましたので、肯定的な意見やその他細々とした感想などはまた後に投下したいと存じます。
>「現世の人」でありすぎるのではないか
これは描写されているそういったディティールをどの程度、現実社会の反映と捉えるか否かかと思います。
個人的にはこのあたりは作品世界の中で通用する記号的なものだと感じましたので、あまりその辺りは気になりませんでしたね。”リアル”はもっとえげつなく、救いようがないので。そういったところの土台の高低で感じ方が違うところはあると思います。
謎が解明されず、次々と進んでいく、というのは本稿本文で書かせて頂いてますが
「ひとつところ”へ熱狂するのを巧妙にそらし続けているように見える」ということだと思います。
前後の記述が自分の見解になります。やはりポイントは1995年だと思います。
女性の魅力云々のところはマッスルレディー、よろしいんじゃないでしょうかw
昨今のアイドルアイドルと叫ぶ一億総ロリコン化よりはるかに健全だと思います。
エロ描写とその数の多さに関しては、本文でも書いていますが自分は一種の艶笑譚と理解しています、そういう意味ではポルノグラフィとは違うので、そのあたりの受けとめ方も異なるかもしれません。
>作中明確に筋肉質と書かれてるキャラが、イラストだと普通の女の子みたいな体型だったのも不満点。
これは単純に泉谷嬢の画力の問題かと思いますね。泉谷さんは非常に透き通った清潔感のある女性を描かれる技量の持ち主ですが、コミックとしてのウルフガイを手掛けられるまではほとんど平井作品以外の”外の世界”にもまれることがなかったかと思います。なので自身の画を極められる半面、今現在の自分の技量を客観的に把握できる機会もあまりなかったのではないかと推測しています。で、そういった”外の世界”に出ていった前後から明らかに次元が数段上がってます。これは監修についていた余湖氏の力も大きいと思いますが、明らかに画としては別物です。そこを比べるのはちょっとかわいそうですね。
>「地獄の蜷川」は原作羽黒やアイスの律子と同程度の悪党に思えましたので
これはキャラクター内部の矜持の問題でしょうね。蜷川は羽黒ほど純粋に悪を志向していたわけでもなく、律子ほど脆くもなかった。キャラクターの根幹にあるストイックさ・峻烈さもその矜持=誇りゆえに、その表現方法が反社会的な形を取っていてもストイックかつ峻烈なわけで、それは見た目は当然強烈な悪党と化すでしょう。ただ彼女にとって社会常識は別に自分を左右するものではないわけです。社会常識にのっとって悪党である、と指摘されても「それがどうした?」と彼女なら眉毛一つ動かさず答えるでしょうね。
彼女の生きざまの中には彼女のルールしかないように思います。要はそれが社会的な善か悪かではなく、美しいか醜いかだけでしょう。自分はあれはひとつの美しさだと思っています。なので反省などはあり得ないでしようね。あるのは「受け入れる」か「受け入れない」、その二択だと思います。
あとはちょっと読み直してからでないとお返事できないと思いますので、とりあえずこのあたりで。
そしてたぶん読み直してる暇が今月はまずありませんwww
今現在も読み直しているお時間はないかもしれませんが、読み返さなくてもご理解いただけるであろう内容についてコメントいたします。
それは、「平井和正は幻想的な小説は書けない、月光魔術團は女性向け」っていう私の感想が思いっきり間違いだった件についてw
前者についてはボヘミアンガラスストリートを読了して率直にそう思いました。
後者については間違いというより見込み違いというか、前半は「冴えない女の子の前に颯爽とした王子様的存在(性別は問わず)が現れる」という、ある意味少女向け作品でよくありそうな切り出しであったが、
途中からメイの消失に伴う人美の無性別化で、女性向けという印象は雲散霧消しました。
話変わって泉谷あゆみさんと余湖祐輝先生の絵についてですが、絵柄が進化したというのは泉谷さんだけでなく、余湖先生もそうだと思います。
この人が同じく田畑由秋先生と組んでウルフガイの前に描いていたアクメツの女性キャラは、ウルフガイにおける木村紀子みたいな、お堅い絵柄のキャラばかりだったんですよね。
で、最新作であるニンジャスレイヤーでは、
https://twitter.com/njslyr_ukiyoe/status/431751553788043264/photo/1
こんなことになってますからw
またニンジャスレイヤーの前に始まったマジンガーZEROでは、エロス的な意味でですが女性らしさが前面に出ています。
ヤンチャン版を読んで後に他の泉谷さんの絵を見て思ったことなのですが、あの漫画のキャラの絵柄は、
犬神明と神明と木村紀子を除く女性キャラは泉谷さんの絵柄で、他全員は余湖先生の絵だと思いました。
このことからウルフガイまでは女性キャラが固くなり勝ちだったのが、泉谷さんの絵に触れたことにより、
また良くも悪くもエロティックな絵の作監を勤めたことにより、女性キャラの絵の幅が広がったように思います。
返信大変遅くなりました。申し訳ありません。
>平井和正は幻想的な小説は書けない
これは微妙なところではあると思うのですが(笑)、一番言えるのはこの『ボヘミアンガラス~』が平井作品の中でもかなり特殊な―ある意味唯一といってもいい異色の作品だからということがあるかと思います。
この作品はそれぐらいこれまでとガラッと作風が変わっており、後に月光魔術團やアブダクションシリーズに一部その雰囲気を残すものはあるのですが、同じ作風のものは皆無といってよいでしょう。
作風の変化の過渡期ゆえのことなのかもしれませんが、異色な作品であることは事実です。
個人的に大好きな作品の一つですね。
>月光魔術團は女性向け」っていう私の感想が思いっきり間違いだった
これはお気づきとおりかと(苦笑)。元々平井先生というのは女性性が皆無の作家かと思いますので、女性が主人公―というか狂言回しか―であってもすごくアクティブで、少なくとも王子様を待っているようなキャラは大きく表には出てこないようにおもいます。
奥ゆかしいおしとやか系のキャラでもその芯の奥にはアクティブさが眠っていることが多いように思います。
ちなみにいまにして思えば「人美さんの原型だったのかな?」と思しきキャラクターは真幻魔大戦に出てくる杉村優里でしょうか。
彼女は人美さんほどゆるめのキャラではなく激情のキャラクターなのですが、当初クールビューティ系の秘書として登場したとおもったらだんだんくだけてきたあたりなんとなく相通ずるものを感じますね。
また”消失”したボス・東丈を自らガンガン探しにいくところ、数多の人格をリボルバーのようにセットして動き回る”超霊媒”的なところも共通しているように思います。
>泉谷あゆみさんと余湖祐輝先生の絵についてですが
このあたりは知らぬが花とも思うのですが(笑)、個人的にはかなり余湖先生の作業量のほうがおおいのでは?と連載中から推測しています。
なのでかなりの部分は余湖先生のせんではないかな、と自分は考えています。
またご指摘の点とは逆になるのですが、泉谷先生の線のほうが女性独特の潔癖で硬い感じの線なので、ひっぱられた・あわせたという意味では泉谷先生のほうがそういった側面は大きかったのではないでしょうか。
そのあたりはおそらく余湖先生と平井先生のご縁となったであろう『バチガミ』の絵を見れば、このヤンチャンウルフガイまでの絵柄の変化に逆にびっくりされると思いますよ(笑)。
もともとかなり余湖先生は長く活躍されているプロだけあって、描線に関しては器用な方なのではないだろうか、と自分は推測しています。
ウルフガイでも月光魔術團についてではありませんが、幻魔大戦が復活しまこと、ご存知でしょうか?以下公式URL
http://club.shogakukan.co.jp/book/detail-book/book_group_id/287/
私はまだ幻魔大戦に触れていないので内容について詳しいことは言えませんが、パッと見の絵については、
「現在描くに際して、石ノ森絵マンマにする必要があったのか」
という印象を抱いてしまいました。
以前偽一休さんが仰った、ヤンチャン版ウルフガイの絵についての感想の模倣になってしまいますが・・・
ただ幻魔大戦に触れていないとは申しましたが、平井先生が宗教にハマってその悪影響が出たなどの
周囲の評価は知っており、それを踏まえて考えると、もしかして本作は
「当時の読者が望んでいた、宗教へ足を踏み外さない超能力バトル路線」
を復活させる目的でスタートしたんじゃないかとも思えます。
タイトルのrebirthは死んでしまった超能力バトル路線の復活という意味で。
絵が石ノ森先生そっくりなのも、超能力バトル路線と最もシンクロするのが石ノ森先生の絵だから、などと邪推してしまう次第です。
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
幻魔のリニューアル版は先日目を通して知っていました。
石ノ森先生の絵である・・・というのは一応理由があるので以下それを簡単に。
実は幻魔大戦という作品はもともと石森先生と平井先生のコラボレーションで始まった出自の作品です。
(自分の生まれる数年前の発表だったかと思うので後追いで知った知識になりますが)
その後、この幻魔大戦という作品は石森・平井両氏がそれぞれ独自に展開していくということで建設的に合意して、両氏がそれぞれの『幻魔大戦』を展開してOK、ということのようです。
今回のRebirth版はそのいちばん最初のコラボであった秋田書店版の『幻魔大戦』(コミック版)を石ノ森事務所側の作品としてリニューアルしているということでしょうね。
なのである意味ご指摘の「超能力バトル路線」としての幻魔大戦というのはあながち間違っていないかと思います。
(角川で映画化された部分の原作的な展開にもできると思いますし)
ただ、平井作品としての方向へ舵を切ってからの幻魔の読者は、むしろそういう超能力バトルは期待していなかったと思うので、あくまでも元の「コミック版」の本来めざしていたところを追及してみようということでしょう。
平井版としてはこの元となったコミック版(全2巻)の描写を途中まで踏襲しているのが小説版の『幻魔大戦』です。
(たしかニューヨークでの戦闘あたりまでが同じ展開で、以降が大きく異なります)
幻魔シリーズは平井作品の中でもいちばん並行世界展開が多い作品かと思うのでなかなか時系列の把握が難しいですが、ざっと並べるとこんな感じですかね。
『幻魔大戦(コミック版)』
↓
『新幻魔大戦(コミック・小説)』※コミック版は石森章太郎・共著
↓ ↓
『幻魔大戦(小説)』 『真幻魔大戦(小説)』
↓ |
『ハルマゲドン(/『幻魔大戦(小説)』の続編)』
↓ ↓
『ハルマゲドンの少女』
『あの日の午後、砲台山で』(小説/電子出版のみ?)
『幻魔大戦deep』
↓
『幻魔大戦deep・トルテック』
あと最終的にはabductionシリーズや地球樹の女神、はてはウルフガイシリーズも本シリーズには含まれるといってもいいでしょう(新幻魔大戦、真幻魔大戦、deepトルテックには犬神明たち出てきますからね)
>平井先生が宗教にハマってその悪影響が出たなどの
これもニュアンスが難しい話なんですが、悪くいうと確かに「ハマって」といういいかたもできなくないと思うんですが、ある意味平井先生は当時のご自身の状況をLiveで作品に反映されてたということでしょうね。
正確には現在も活動を続けているGLAという団体の主催者の方が著作を書かれるときに、その出版作業に大きくかかわられたということのようです。
このあたりは自分がどうこういうよりも、その時期に関する平井先生のあとがきやエッセイ等を直接当たられた方がより正確に理解できるでしょう。
図書館などで作品が読めるようなら漁ってみるのも面白いかもしれません。
月光魔術團、一読したけど再読してなかったんです。引越しのときひさしぶりに本がでてきて、再読して上の解説のとおりだなぁと思いました。
ところで、ネタバレかもしれませんが、○ーって誰なんでしょうか。「犬神明」にでてきた人? そうなると○ムとは関係ない? ○ムけっこう好きなんですが。「犬神明」もけっこう忘れてるんで再読しないと。○ー○ーとポペイは同一人物? よくわからない。
niseikkyuさん平井和正にお詳しいようなのでお聞きしたいのですが、「風間亜土」と「お蘭さま」の関係は、○一人物でよいのでしょうか? ○身タイプの。
>RODEM3RDさん
はじめまして。コメントありがとうございます。
ご質問の件ですが、自分もしばらく読み返せていないので、あくまでいまこの場でぱっと思い出しての推測になりますが以下簡単にお返事させて頂きますね。
本作『月光魔術團』中のマーはおそらくキャラクター的はキムであろうと自分も考えます。
ただこのあたり並行宇宙的な作品でもあるのでむづかしい所なんですが、『犬神明』作中の描写からするとキムはロイスをベースに作られた可能性もあるので、まあそういう呼び名でも間違ってはいないのかなとも思ったり、正直自分も確信的に「こうだ!」と言いづらいキャラクターの一人ではあります。
※上記の推測からするとインセストタブー的な側面もあるわけで
おなじく風間亜土と蘭も情報が少なくて判断に迷うキャラクターです。
正直ご指摘いただいている同一人物かも?という認識は自分はあまりありませんでした、お蘭さまがあまりにも可憐だったので、そういう発想が浮かびませんでした!根がすけべえだからでしょうか(^^;)
むしろ自分は読んだ限りでは蘭と亜土は親子ではないかな?的に考えていましたね。
また平井先生の作品で90年代以前のものはあまりキャラクターの性別的なところの移行というのは見られなかったように思います。そして90年代以降のそういった作品でもそういった同一人物の性の変化というのはおしなべて主人公クラスの美少女(作品の狂言回し的なキャラ)が周辺の女性キャラクターと「必要以上に」仲良くなるため(笑)に発現していることがほとんどのように思われます、平井先生の「女好き(褒め言葉)」傾向の真骨頂と申せましょうか、主人公および作者以外の男性キャラにはいい思いはさせないというか(^^;)
なのでこの亜土と蘭に関しては自分的には同一人物的な発想はこれまでなかったです。なのでご指摘いただいて逆にすごく新鮮でした!
またなにか違った見方があれば書き込んで頂けると嬉しいです。
ありがとうございました。
すいません、横レス失礼します。
犬神明は青鹿先生の死別と母ロイス(の名残のような何か)との決別を通してマザコンが解消されたと思われましたが、
>キムはロイスをベースに作られた可能性もある
このことも合わせて考えると、結局は生物学的には母と同じ遺伝子を持つかもしれない女性と結ばれたので、結局は母の元に還った、と言えてしまえるかもしれません・・・
無論遺伝子が同じであってもそれにより構成されたキムの肉体はロイス・マー両者とも別人ですし、その中に入っている精神はなおさらなので、犬神明のマザコンが再発した、とは断言できません。
ウルフガイのマーの目的は、息子だった青年と結ばれる(いわゆる男女の仲以上の意味があると思われる)ことにもあったため、月光魔術團の少女マーが結局犬神明と結ばれたのは、当初の目的が長い時間をかけてかつ別の形で叶った、とも思えてきたり。
少女マーは一見完全にキム・アラーヤですがマーと名乗ってるあたり、犬神明と両想いになるにあたって、どこかで元ロイスのマーの意向も働いてたんじゃないか、とも考えてしまう次第です・・・
ご高説ありがとうございます。
親子説ですか。そっちのほうは予想してませんでした。読み返して思ったのは、東丈がお蘭のことを「あなたのほうが(亜土)よりも好ましい」というのはさすがにあつかましすぎて言わなかったくだり、再読しても笑えました。蘭のおばさんが確か意味深に、丈に「もっと近しいものです」みたいなことを言ったと記憶するのですが、平井先生の得意技は、平井ジャーマンスープレックスで、読者が気になる脇役(しかし割と重要な)の詳細はまるまるすっとばしてしまう点。
わたしはお蘭さまのことをもっと知りたい。雛子や絵理子(この字だっけ?)はどうなった。というか。
サワグチサマは何巻からでてくるのでしょう? 購入したはずなのに一読のみだから、全巻散逸してしまったようです。また、買わなきゃ。いまさらですが、サワグチサマは○○佳子さんにすこしかぶっているのかな。でも、気づくのおそすぎですが、真幻魔大戦で、リアリーがソル王女の口を借りて、少しばかりの霊能など、真の魂のなんでしたっけ悟り? ちがったような、に比べれば億兆倍も比較にならないみたいなこと言ってました。高次元の霊と語ったり、異言現象の本質をついているのかもと思いました。
月光の通奏低音としてサワグチサマはつねに奏でられている。が、誰も気にしない。気にするのは人美。
神のごとき人はいると思う。というか、いてほしい。わたしにとっては渡辺範彦先生、このギターの音色を聞いて、感動しない人がいるだろうか。先生の語り口の繊細なこと。しかし凄すぎて、当時ギター志望の若者をことごとく挫折させたという、噂は本当なのか? というかわたしゃアマなんだから、プロの先生と比べてもしょうがないんですが。
>RODEM3RD さん
コメントありがとうございます。レスが大変遅くなりたいへん失礼しました。(滝汗)
(実家の片付けに2週間ほど缶詰めになっていたのでブログ更新しやすい環境になかったものでして:汗)
取り急ぎ調べたところでは沢口サマは第一シリーズのかなり最後のほうで突然登場する感じですね。
平井先生没後本シリーズのPDF版も購入してみたのですが、なかなか名前で検索に引っかからず調べるのに手間取りました、お恥ずかしながらコメント頂くまできれいにそのシーン頭の中から飛んでいたという(苦笑)。
沢口サマはご指摘の方というよりも、平井先生の作品に比較的類型として登場するセイントな感じの少女の系譜を強く感じますね。巫女型のキャラクターではあるんですが、真幻魔の優里さんのようにアクティブ型ではなくパッシブな(受動的な)タイプの特徴を多く持ったキャラクターかと思います。清楚、しかしその芯の部分には熱いものを宿している・・・非常に魅力的なキャラクターです。世界樹の後藤由紀子などもこの系譜なので、ある意味かなり上位階層のヒロインのような気がします。お蘭様もこの系譜のキャラだと思うので、そりゃ東丈もど直球で口説きますわw(違
ご指摘のような「少しばかりの霊能など」云々にも関連しますが、要はちゃんとそういった皮相の現象に惑わされない、真の智慧、賢さを持っているキャラクターの系譜ということかもしれません。で、そういうキャラが主役になると話が転がりづらいので人美さんのようなお人好しの「当たって砕けろ!?」なキャラ(苦笑)が狂言回しとして主役になっているような気がw
>渡辺範彦先生
恥ずかしながらこの方は存じ上げませんでしたが、クラッシック畑の方なのですね。
自分もギターミュージックは大好きなので今度時間のあるときにゆっくり聞いてみたいと思います。ご紹介ありがとうございます。で、ひょっとしてRODEM3RDさんもギター弾かれるのですか?(興味津津w)
>飲マスク さん
RODEM3RDさんへコメントつけてい頂いていたかと思いましたので自分からはレスつけておりませんでしたが少しだけ。
>結局は母の元に還った
このあたりなかなか読者としての解釈というか落とし所が難しいですよね、自分もかなり混乱して読んだ記憶があります。
陳腐な解釈としてはエディプスコンプレックスを母親視点で真逆にしたというか、いま風に言うなら母子カプセル的な状態になることを望んだと言えるのかもしれませんが、電脳の裡に再現されたロイス=マーというのはある意味女性性がもつ暗黒面の体現者のような気もするので、そう単純に話を終わらせたくないような気もします、もっと複雑なものが含まれていて、平井先生はあえてそれを分かりやすい状態で紐解くことをせず、その複雑さを複雑なまま読者にポーンと預けてみたというか・・・・・案外そんな気もしてます、個人的には。キム・アラヤの存在自体がその単純に割り切れない部分の象徴のような気もしますし、ご指摘のようにキム自身が魂としては独立した存在です。また面白い解釈あれば思いついた時にでも教えてください(^^;)
NISEIKKYUさん
ご見解とご返答、ありがとうございます。
こっちは一週間間隔くらいじゃないとネットにアクセスできないので、
無理して検索なさらないでください。
渡辺範彦先生。
クラシックギターのパリコンで日本人で初めて優勝。
審査員満場一致の優勝は当時でははじめて(らしい)。
美人ギタリスト村治佳織の師匠の福田進一氏は渡辺氏の演奏に感動して、自分もパリコンで優勝すると誓って実現したつわもの。
村治氏は若くして有名になった人ですが、その謙虚さが少なく感じるところが私は好きです。(失礼、わたしにはそう見えるというか、意気軒昂なところはいい)
しかしその芸術性をわたしは感じない。そこには謙虚さがないというか悩みか見えないというか。
彼女には自分が感動したことがないのでは?というのは私のやっかみでしょう。すみません。
わたし渡辺先生の「ファンタジー」と「アリアと変奏」が好きですね。
どちらも弾けますが(昔は)先生の域には到底およばない。
当時ギタープロ志望の若者を多くうちくだいたとどこかで聞きました。
わたしも挫折しました。(だから俺はプロ志望じゃないんだって)
テク的にもっと凄い人もいるでしょうが技術と芸術性と人徳のバランス
が素晴らしい。わたし的にはサワグチさま的なかんじです。
パリコン=パリ国際コンクール
http://www.mm3ta.net/sin.jpg
全然関係ないですが、上は平井先生がかつて青恥をかいたという
謎の書です(しかし先生も人が悪い「幻魔大戦」で「悪魔の標的」(なまえ間違ってるかも)を東丈自身に独力で書かせるとは。)
この裏表紙宣伝右上に中丸薫さんがいます。
この人が前世はクレオパトラだとか、卑弥呼だとか、私を笑い死にさせる気かという偉大な人なんですが、地球空洞説もさらにある。
地球が空洞だという説なんですが、あたまからあなどってるので全く理論が理解できない。
しかし他の人の意見に宇宙のノバァで発生するガスですが、これはいくら集まっても
固体にならない、というのはなんとなくうなづける。チリやガスが膨大に集まったからと
いって自らの重力によって固体にはならないのでは? いやいずれにしても私の頭脳ではどうにもならんのでしょうが。
ところでまた質問で申し訳ないのですが、(無理に調べる必要なしです)
デジガミさまが人美と初コンタクトとるのは東京ベイエアにでかけるところ
でしょうか。
また人美がルキッフ氏の顔を認識するのはどこでしょうか。
再読してるのですが、膨大な文字量を若いときほどに処理できず、
判然としません。読んでるこっちとしては禿の外国人のおじちゃんだろうな
と思っているのですが、人美はどこで気づいたのか?
ではでは。失礼いたします。
追伸
月光魔術団 幻魔大戦DNAのあとがきで
先生がご自分が読者を減らしつづける作家であることを書いていて
笑いました。
わたしもこれ誰が読むんだろうと思いつつ買ってたわけですが、
面白い、そうでないはともかく、パーミターとかエリーとかいろいろ
前のシリーズ読んでないとわからないと思って。
西城、改心したんでしたっけ? BEEが要人の首ひっこぬいて、次は西城だと
いうところで西城はほうほうのていで逃げたんでしたっけ。
うーん、電子版・平井和正大全集、10万円(HD、BL)ででませんかねぇ。
ページをめくるのめんどいです。というか紙の本は散逸してしまった。
検索であの場面がパッとでてくる。パットン将軍じゃなかった、
あー記憶力低下している。ドードーの元の人物というか。
「黄金の少女」は誰でも笑う。物語が終わって、それが単なる先触れだと知って。
すみません。西城とその娘さん誰か教えてください。伏字でけっこうです。西城のことわすれてました。チーフスンはどうなったんだっけ。
>RODEM3RD
例によりレスおそくなりすみません。
西城の娘さんは女医さんの○嶋さんだったかと思います。
その彼女が「ダーリン」とよぶライノじいが西城さんだったかと思いますね。
西城もなかなか息の長い+多くの変遷を経てきたキャラクターですよね。
とはいえやはり彼の最大の見せ場は瀕死の恵子にアンプルを打つか打たないかで葛藤するシーンかと思います。
いかん、またなんかレクイエム読みたくなってきましたw
貼っていただいてた『真創世記』なつかしいですね(苦笑)
自分も幻魔にはまっていた当時はコレクターズアイテムとしてもっていました。実家にはまだあったはずなのでまたサルベージしておかないと。
電子書籍で全集ほしいところですね、自分も同意です。
現状Kindle版がかなり充実はしていると思います+e文庫でのPDF版で網羅というかんじでしょうか。
個人的にはデバイスを選ばないという意味でPDF版が気に入ってたりします。
電書は便利ですし、スピードも上がるんですが、読破感がやや薄れるのが難点でしょうか。
NISEIKKYUさん ありがとうございます。
そう恵子ですね。すっかり忘れてました。
この年になると記憶はかなり薄れますね。再読しないと。
月光、散逸してたので買いなおしです。
文庫のほうは買ってなかったので、購入したらリアル犬神氏のインタビューがあって懐かしいです。
いま氏が頭だけ写真を公表して白髪がなかったら神話人種実在です。
ハゲだったら不明です。
タキグチが人美にかってにいれあげてかってに幻滅するのは本物じゃないと言っていたのは何巻だったか。よみなおします。
でもソル王女はアポロにひとめ見て死んでもいいみたいなこといってたわりには、郁江は丈に対して辛らつというか率直すぎというか、フランクなとこが彼女らしいというか。
それにしてもトルテック。ソニーが「時間までは越えてとべねぇ」と残念がってやっていたのをあっさりやってしまう。「無限」いいですねぇ。
沢口さまの秘密
をNISEIKKYUさんはどう思われますか?
沢口さまは人美の謙遜癖の思い込みを解除したと言ってたのに、あまりそんな気配はなかったような。
これは神は神を知る、というか、昔宗教家の五井昌久氏が植芝盛平翁を評して、武の道から到達した神そのものだと評していました。
人美はサワグチサマを会った瞬間から女神として遇していたわけですが、サワグチサマは人美の本質を霊能で見抜いていたので、「人美さんこそ神々しい。その足跡まで崇拝したい」と言ったのかも。
思うにサワグチサマは人美の使命をなげすてさせても、ひとりの男と女として添い遂げたい気持ちを悪魔のささやきとして感じたのかな、と。サワグチサマの告白レターどこにいったんでしょう。人美は家にかえれないから、自宅のポストに宙ぶらりん?
ところでいろんな武人の神業ありますが、ブルースリーもけっこうすごいと思いました。YouTubeでみつけたのです。ぬんちゃくで卓球できます?
http://mm3ta.ciao.jp/b_lee.htm
コメントありがとうございます。
>沢口さまの秘密
このあたり再度サワグチサマの描写を読みなおしてご返信したいところなのですが生憎と読み直す時間ががが(泣)。
e文庫でPDF版の月光全シリーズは昨年揃えてiPadにぶち込んでありますので、近々読み直してご返信おば~!?(><)
>いろんな武人の神業
これはなかなか素晴らしい動画のリンクありがとうございます。ほんとにヌンチャクで卓球してる!?(驚)
ただなんとなーくですが「できるんじゃないかな?」という感触というか感覚的なものはなんとなく想像はできますね、超絶技巧ではあると思うんですが。
確かRODEM3RD様もギターを弾かれていたとのお話だったかと思うのでお分かり頂けると思うんですが、こういう武具とか楽器とか慣れ親しんだ道具って、調子のいい時にはまるとなんか脳みそと腕と道具が直結しているような感覚体験されてるのでは?
もちろん、そういったハイレベルの状態が常態であるのが天才とか達人―いわゆるそのジャンルの神と呼ばれる人たちかと思うので比べものにはならないとは思いますが、そういう感覚の延長線上にこういう超絶技巧はあるんじゃなかろうかと。
武術系のお話でいうと、個人的には友人に教えてもらって以来日野晃先生のブログなどは良く見るようになりました。
「感覚」的な部分の言語化を比較的してくださってる方かと思うので自分のような武術も何もかじったことのない人間にも面白いのかもしれません。
ということで、サワグチサマに関しては宿題ということにさせてください、スミマセン(^^;)
http://mm3ta.ciao.jp/tmp_22730-%E7%94%BB%E5%83%8F-0117-1213739672.jpg
偽一休さん、その後トルテックのほうはお読みになりましたか。古い葉書をみつけたのでupしました。リアル犬神さんどうしてますかねえ。マンガ「幻魔大戦」読み直して、サメディとゾンビーいいキャラだと思いました。
追伸
電子版の最初のものはジェニとメイのネタバレがのっているそうですが、お持ちでないですか。わたし持ってたはずですがpcが不明なので、再購入してそちらからは削除されてます。
あと、1期の文庫版には巻末にフルのリアル犬神明のインタヴューのってます。文庫は全巻そろえてません。
貴重な画像ありがとうございます。お返しにと言ってはなんですが電子版の注釈画面のキャプチャなぞ。
http://www.thx-design.net/blog/?attachment_id=14375
ご指摘のジェイとメイのネタバレはこの注釈使ってのものかと思うんですが、これを知った当時は手元には物理版のみ、最近手に入れた電書版はすこしづつ読み直してますが、ついつい本編に夢中になってこの注釈は読み飛ばしてしまうんですよね(^^;)たださすが作者直筆の注だけあって、いろいろ面白いことは書いてあるように思います。
リアル犬神氏懐かしいですね。たしか公式サイトのwolfguy.comで一時期インタビュー乗ってたような記憶ありましたが、なぜか内容の詳細忘れちゃいました(苦笑)。ご健在なら動向を知りたいような知りたくないような・・・。
ザンビとザメディは確かにコミカルで面白いキャラですよね。ああいう漫才コンビというのは敵方では珍しいかもしれません。
現在連載中のRebirth版でもニューヨーク戦はリピートしてましたので彼らのどちらか出てたように記憶しているんですが、オリジナルよりはコミカルさは減ってたように思います。それはそれで良かったんですが。平井先生の作品はけっこうギャグ作品も面白かったりするので、そのあたりを受け継ぐ作品も出てきてくれると良いですね。
※宿題とさせて頂いているサワグチ様は上記添付画像の注釈がある意味すべてのような気もしますが、自分なりに読み解いてみたいとは思っています。ただ読み直しの時間取るのがけっこう大変なので一というお約束はできないのが心苦しいのですが・・・(^^;)
niseikkyuさん こんにちは
http://mm3ta.net/goizen.jpg
こんなのみつけました。
平井先生は、小説のなかで丈に
「光の子の乗り物はいくつもあるんじゃないかな」的なことをいわせてた。
シンクロにシティ?
葉書の感想コメントは自伝をおくったときのもです。
返信ありがとうございました。
またまた珍しいものをありがとうございます。
自分は宗教関連はさっぱりなのでこういう団体もあったのは初めて知りました(笑)。
ただ直近で読んで面白かったのは島田裕巳氏の日本の10大新宗教 (幻冬舎新書)ですね。平井先生絡みのあの団体も記載があり、非常にフェアな記述になっていて自分のような宗教に興味のない人間にとっては全体を俯瞰する良い資料でした。
あと宿題とさせていただいてたサワグチ様関連ですが―。
個人的にはサワグチ様登場個所を実家の掃除をいいことにざっと読み返していたのですが、彼女は人美さんにとってのイグニッションというか「鍵」のようなキャラクターだったような気がします。
最後のトウキョウベイエアのシーンでも活躍場面は用意されていますが、実は彼女の最大の役割は彼女のおばあさまを通じて丑寅の金神様を降ろし、人美さんにサジェスチョンを与えるところのように見えます。それ以降というのは存在感はそのまま大きくはあるんですが、キャラクターとしてのパワーも一歩引いたような印象を個人的には受けました。言葉として自身の聖性の喪失に関する告白をされているというのもあるかもしれませんね。
そういう意味では少年ウルフでいうならエリー的なキャラクターに近いのかもしれません(自分も読んでて意外でしたが)。
なので彼女に関しては特にモデルというかベースとなるなにがしらかの人物がいるという形ではなく、平井作品における聖性を降ろす「より代」的な性格をもったキャラクターの系譜の代表的な一人ということかもしれません。
※PDF版のジェにとメイの注釈?あとがき?はまだ発見できておりません。きっといまは「隠されて」るのかもしれませんね(苦笑)。
Niseikkyu様 変身ありがとうございます。
画像で驚いたのは、ひらりんのモデルのカツシンも親子夫婦で賛同してたことです。画像では不在でしたが、葬儀時には郁江がギョロ目のおじいちゃんと呼んでた人とおぼしき人物もでてました。
ところで偽一休さんはトルテックお持ちですか。わたし1,2巻なくしてしまいました。
>Rodem3rdさま
早々にレスつけて頂いたようで恐縮です。
勝新に関るご指摘に関してはいろいろと興味深いお話ですね。モデルとなった方をご覧になられたということですと直接葬儀に参列されたということなのですね。これまでの自分の物のいいようが御無礼になっていなければ良いのですが・・・(汗)。
個人的に勝・中村の御夫婦の話題になるといつも思い出すのは宿曜経でいうところの「安・破」の例示としてあれほど的確なものはないのではないかと―コレ自体某書からの受け売りですけれども(苦笑)。
幻魔大戦Deepトルテックは所持しております。
幸いなことに少し前オークションで限定で添付されていた電子版(PDF版)も入手しましたので、もしなにか確認必要であればできる範囲にはなりますが確認はさせていただきますが。
そのうちトルテックもkindle版等出そうな気もするんですが、最近あまりリリースの報は聞かないですね。
どうも直近では「ボヘミアンガラスストリート」の新装丁版でのkindle版リリースがいちばん新しい動きのようです。
いえいえ葬儀には行ってません。
古い会誌を手をつくして手に入れた次第です。
http://mm3ta.net/tentochi.pdf
この本を平井先生にお贈りしたところ、
本をどうも。
敢えて感想はかかない。それで充分。
とお返事をいただいたわけです。
平井先生は知らなくて小説を書いたのでは?
Urlは貴ダウンロード後削除します。
幻魔大戦deepトルテック読まれました?
上のを読むと「内的沈黙」は実は相当難しいと思います。だって空になれとほとんどおなじ。みちるが、無限かも、選んだ女トルテックたちは選ばれるべくして選ばれた。
おひまなときにご一読を。
て、みちるは時間がないというが、ネフェルはありあまってるのでは? と、ふと思う。
補足
杵屋 勝東治(きねや かつとうじ)
勝新太郎の父上。
出版発起人リストに名前があるのに気づいたのは最近でした。
以上
niseikkyu様
すみません。少し外しておりました。
添付頂いたものは時間をみて拝見させて頂ければとおもいます。
(削除頂いてけっこうかと思います)
>「内的沈黙」は実は相当難しいと思います。
そうですね。この点に限らずトルテック関連のタームはことごとく我々のような一般社会に生活する人間にはなかなか理解するのは難しいと思います。カスタネダの書籍に関しても論理的に誠実に考えれば考えるほど理解できない的なことを平井先生も作中で書いてらっしゃったかと思いますし。
ただ個人的に一点だけいいな、と思ったのは「無情ではなく非情」のところでしょうか。
これも字面だけ読むとかなり誤解されそうですが、字義をよく考えれば意外といちばん理解しやすいタームかもしれません。
最近ベストセラーになってもいるアドラー心理学を取り上げた『嫌われる勇気』を読んでてああ、そういうことかもな、というのも感じました。
ファイルのほうはいずれまた印象などをお返事できればと思います。
niseikkyuさん、こんにちわ
トルテックの感想も書かれたら教えてください。
お蘭さまのしょうたいですが、福山氏が的確な回答をくださいました。
http://mm3ta.net/Screenshot_2016-04-24-13-00-35.png
さすが福山氏。本人?
お蘭さまが別の時代
からというと、本体はソル王女、てことはすくないか。
Niseikkyuさん、連投すみません。
https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/sinpigaku/strovolos.html
これ「悪霊の女王」をおもいださせます。
アニマをのっとろうとする悪霊には本当の感情がないというか、悪想念が実体になりたくてあがくというか。
下の文、エリーにあてはまるような。
自分の内面に入ると、そこには人間の観点からは無のように見え、存在性の観点から見ると自足の状態であるが、物質界戻ろうとする傾向を私自身が持っていることが分かる。ともかく、今は自分の経験から得たことのみを話している。もしも<自足した非思考的な状態にあって、私たちが幸せが見つかると呼んでいるところと、苦労と試練に満ちた現象的な存在に生きるのと、どちらを好むのか>と尋ねられたら、その答えは、愛する人の隣にいて、その目を覗き込むことができ、その足を愛撫してあげられるなら、その方がいいと言うことと同じだ。弱さと呼んでもいいだろう。これは存在性の性質であって、私たちの存在の性質ではない。種々の世界を創造したというのは、絶対の存在性のこういった性格によるのであろう。太陽の光をもって、最もつまらない、淀んだ水たまりにも、愛をもって接するのだ」
「もしかすると……」と言ってから、数秒間をあけて続けた。「私の言っていることは、冒涜かもしれない。しかし、そのように感じるのだ。苦しさと多くの弱点を持った物質界だが、美しいと思うのだ。間違っていると思うかな」
(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P192-194)
多投すみません。
下の文、ジェットライナーが揺動に見舞われる中、小児の導きにより覚醒した東丈を思い出させました。覚醒すると出番がなくなる。「永遠の人格を大きな円で描いてみよう。この外側に、もっと大きな円で、しかも円周がない円があると想像してほしい。この外の円は、神に内在する魂、永遠で無限。いつでも純粋で汚れを知らない。この二つの円の中に、自己意識を持つ人格と私が呼んでいる小さな円がある。この三つの円すべては同じ中心を持っている。小さな円が広がり、だんだんと小さな円と大きな円の周が一つになっていく。小さな円の広さは自分の完成度を表す。現在と永遠の人格の中心、そして自己意識のある魂の中心はみな同じだ。私は存在する(I am)と、現在の自己と永遠の自己のどちらもが言っている。どちらの声か尋ねると、私です(I am)と声は一つだ。同じ声がこだまして返ってくるだけだ。実際の私は自己意識の全体だ。物質世界の経験が私たちを二つに分ける状態をつくったのだ。
現在の自己意識を持つ人格が小さな円を広げるほど、現在の人格に永遠の人格が入っていく。スピリチュアルな道を進むほど、この内なる自己が現在の人格に大きな影響を与え、コントロールすることができる。良心のある人だとか、それがない人だとか、私たちは習慣で言っているが、実際には中心がない人はいない。良心がどの程度かは、現在の人格がどのくらい永遠の人格に広がっているかによるのだ」
(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P97)
「私は神だ」とか、「私は神だが、あなたも神である。しかし、あなたは自分が神だということに気付いていない神だ。」とかいう表現がいわゆる「精神世界」関連ではよくでてくるのだけれど、これは、自分がそれに気付いていないとしても、人は神と同じ中心をもっているこということ。我はありてあるものなり。しかし人の通常の自己意識はあまりに小さく、神の自己意識は無限に、円周さえ持ち得ないほど大きい。大きいというよりもすべてのすべてである。
現在の自己意識が自分の人格なのだから、人は自分の人格の円を広げていかなければならない。自己意識を限りなく広げていかなければならない。私たちの通常の自己意識はあまりに狭くて浅いから、その自己意識をどれだけ広げていくことができるかということ。
こうして地上に生まれ肉体をもっているということはさまざまな制限のなかで生きるということを意味しているのだけれど、それゆえに自己意識の可能性も大きいということがいえる。自己意識の自己を自分の欲望やエゴなどとして狭くとらえているとその自己意識は自分で自分を檻に入れていることになる。
私はあなたなのだ。私があなたであることにたどりつくために、私はさまざまな格闘を繰り返す。