昨年末発刊時に買っていたんだが、インプットモード切り替えられずようやく読了。
とびとびに読んではいたんだけど、最後まで読み通せなくて置いてあったんだが、ようやく最終章まで。
こうは書いたが、内容はすこぶる面白くて本来ならあっという間に読んでいたと思う。
昨今の経済至上主義の世の中では、目先の話―実は「経済」の話でもなんでもない、小手先の”テクニカル”と呼ばれるような金融知識を「経済」の話と勘違いして、そういう詭弁を弄する小銭稼ぎの上手い人物を「言論人」として持ち上げるようなことが多い。(特にろくな政策論争的な視点すらなく、「金融工学」などという単語をさも意味ありげに濫用する人々はまさにそれだろう)
しかし本来、「経済」という話をするのならば、そこに経済を動かす人の意思=「政治」があり、その「政治」という経済の「プレイヤー」たちのせめぎ合いがあり、それを時系列を追って整理した「歴史」観が不可欠のはずである。
そういった視点もなく、小手先の技術(というか詐術)をさもイカした経済知識かのように語るのは「小さく賢しい=小賢しい」といっても、あまり間違ってはいないように思う。
本書はそういった「小賢しさ」とは無縁の骨太な「歴史観」を持った「経済」の一冊。
しかし、その「覇権主義」と「多極主義」に始まる独特な視点の設定は、読む人によっては著者を「陰謀論者」的に捉える人もいるだろう。
だが本書は、そのソースが欧米の新聞や経済紙、政府の公式ステートメントという至極スタンダードなそれを用い、ジャーナリズムの世界的趨勢からすれば非常にオーソドックスな、王道の分析方法による結論だ。
これまでの経済にまつわるトピックが、なぜ・どのような意図により発生してきたのか?
本書は、それを非常にわかりやすく解説してくれている。
個人的にはいまのところ政治・経済のジャンルで面白い方は高橋洋一氏とこの田中氏が双璧。
どちらもシンプルな「メリット・デメリット」の視点から、各プレイヤー(政府や資本家、軍産複合体など)の動きを分析し、非常に明快な論を展開されているように思う。
本書は上に書いたように、この「プレイヤー」の説明の部分に、若干「陰謀論史観」と取られなくもない説明の仕方をしている。
が、巷に良くある陰謀論者たちが「あらかじめ(自分の想像する結果にとって都合のいい)結論がある」のを前提としているのとは異なり、上記のようなスタンダードな新聞・経済紙の分析から「既に存在しているある状況を経済合理性を持って説明するには「ある種の意図」の存在を想像せざるを得ない」という、陰謀論者のそれとは、演繹・帰納が真逆のところから説明がされている。
なんにせよ、本書の近現代の欧米史を絡めた世界の動向を説明したセクションは、自分がこれまで読んだ政治経済史のなかで、ズバ抜けてわかりやすかった。
もちろん、人によっては信憑性のない与太話だ、後出しじゃんけんならどうとでも説明が付けられる、という方もおられよう。
それを別に否定はしない。
各人が各人の望む視点を選択すればよいだけの話である。
(それがある意味、個人の”政治的選択”だ)
ただ最近強く思うことは
”愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”
これは本当だな、ということ。それを実感している。
”歴史”の観点を持たない・持てない人物は、個人の能力がどんなに優秀でも、大したことはできない。
(もちろんその”歴史”の範囲の大小は、その個人が生きる幅によって選択されてよい)
そして、その「歴史」感覚の欠如が、いまのこの国のいろんな問題の遠因の一つであることは間違いないだろう。
あ、それとね。
日本はもう原発推進できないっすわ、本書を読むと。
本書の内容でいうとおまけ程度の記述だけど、「あーこら無理だわw」と思ったね。
もちろん油断はできないけど、おそらく無理。
せいぜい既存の炉だけなんとか使わせてもらって、ほそぼそ行くかもしれないけど、いまの日本の支配層にとっての「お上」がそれを投擲させてるわけで。
(「お上」はそう、あれですね)
本書に沿ってこれまでのことを考えると、それを無視してまで原発を再稼動させるだけの根性と意志を持つ人物・グループは、日本国内には存在しない。
そういう意味では、逆にちょっと安心したな。
ある意味すごく皮肉なもんだが。