SAW

標準

月極めレンタルで。
自分の契約は「月4本=980円」のヤツなんだが、これまで取り上げていたのと並行して、本シリーズ見てた感じ。

SAW ソウ

二人の男は、気がつくと鎖につながれ、廃墟の一室と思われる部屋で監禁されていた。
部屋には他に一つの死体と拳銃、そしてマイクロテープレコーダ。

「ゲームをしよう」

再生したテープには加工された男の声でそう吹き込まれていた・・・。

とまあ、そんな感じの第一作から始まるシリーズで6,7本あったのかな?
1作目は確かに作劇として、これまでのホラーと違う心理戦的な側面とギミックを取り入れた一つのジャンルをつくったと評価してもいいかもしれない。

ただこの手のシリーズものにありがちな話で、以降本数を重ねるたびに作品の質としては、アップダウン―ほぼ右肩下がり(苦笑)。

それでもなぜ借りてみようか、という気にさせるかというと、やはり「内容」ではなく、物理的な技術としての演出やシナリオが「システム」としてよく出来ているからだろう。

これはある意味電気回路の設計に近いような、”技術”の力だ―そしてハリウッド製のそれは非常に良く出来ている。
この点改めて感心した。

しかし内容としては、せっかく”心理戦”のファクターが大きく作品構造に組み込まれているにもかかわらず、一作目をのぞいてある種の浅薄さを感じ得ない。

以下、その理由を―。




嘲笑

SAW2



その最たるものは作品全体にうっすらと流れる人間への”嘲笑”のニュアンスだ。
もっと俗っぽく言うのなら

”偉そうなこと言ってもしょせん、オマエらこんなモンだろ?”

というのが作品の通奏低音として流れている。
よくよく注意しないと気づかないが。

これは多くの観客や、製作者側も、ほとんど気づいていないかもしれない。
(もし意識してその点楽しんでいる人がいるなら、その人はちょっとあぶないな)

本作での犯人・ジグソウは「ゲームをしよう」という言葉と共に、その犠牲者たちに常にギリギリの選択を迫る。

お前たちは恵まれた生を十分に生きていない。死を目前にしてその生の意味に気づけ、と。

一見、ある種の哲学を感じさせるこの物言いだが、自らは直接手を汚さず、常にビデオカメラで「覗(のぞ)いて」いた時点で(まさに「saw」だ)、自分を超越した傍観者の立場においている。

SAW3



それはまさに、人の身であるにもかかわらず、まるで神の視座にたったかのようだ。
一見謙虚で紳士的に振舞っているように見えるが、彼は自身を裁きを行う神の代行者かなにかに模していたのだろう。

そしてその行動は、一見、人の善性を発揮させたいが故のように見えるが、じつは基本嘲笑だ。

お前たちに選択できるか?やってみろ―ほらできなかった

そう言いたいのが透けて見える(これは実は一作目に顕著だ)



”フラット化”への暗い情熱と、人間という存在への”認識”の狭さ

SAW4



要するに、これだけ毎回大仰な仕掛けをつくり、人の善性を試している割に、実はそこには人間という存在への信頼や希望はこれっぽっちもない、それは―つまるところ自身のシニシズムやニヒリズムを確認のために、犠牲者を次々と求めているだけに過ぎない。

要するに”偉そうなことを言っても、お前らも一緒だ”―そういうフラット化への暗い情熱だ。

では彼は何故そうせざるを得なかったかというと、基本人間というものの存在に対する”認識の狭さ”故だ。

”こんなモンだろ?―ほら見ろ”

ジグソウが思った、その「こんなモン」という人間の範囲、その”外”―それをを彼はついに想像することは出来なかった。

ここで「被害者たちがゲームに勝ち、そういった希望を見せれば変わったのではないか?」そういう向きもあるだろう。

SAW5



だがそれは、基本的にちがう。

彼はそういう「必ず失敗する」であろう人間を無意識のうちにわざわざ選んでいるのだ。

そういう意味ではお決まりの文句「ゲームをしよう」も、冷静に考えてみれば、非常にむなしく聴こえる。



”無自覚”―哀れな神の代理人

SAW6



そう、ゲームも何も―最初からそうなることを(失敗することを)確信して―彼は犠牲者をその自慰行為のための鉄の顎門(あぎと)にくわえ込んでいただけだ。

だから実のところ、神の視座に立ったつもりで、人間たちを試し「saw=覗き見」していたジグソウは一番哀れな人間だったともいえる。

なぜか?

それは彼は、自身が思い込んでいる狭い世界での人間の可能性しか結局知ることが出来ずに世を去らざるを得なかったからだ。

演出上、全てを見通す万能の知性のように彼は描かれているが、その点で実は非常に薄っぺらい人間でもある。
(なかなかそう見えないが―”頭が良いが薄っぺらい”人間というのはいるのだ)
ましてや、彼が表舞台をさったあと、彼の跡を襲う連中はいうに及ばず。

人は、どんな知性があり、高尚なことを言っていても、結局は自ら望む光景しか見ることは出来ない。


人を信じ、人に希望を見る人はそこに真に希望を見、

人を嘲り、人を不信でしか見れない人は、そこに失望しか見つけられない。


図らずも、逆説的にこのシリーズはそのことを物語っていたように思う。

だから彼の言葉とは逆に、生き残った人たちは、なにか人としての善性が目覚めるわけでもなく、むしろ逆に、人間のいちばん悪辣な部分を強化したような人種が、彼の後継として次から次へと登場する、まるでパンドラの箱を開けたかのように。

saw FINAL



そういう意味からも、ジグソウ、彼がいちばん哀れな人間だろう―彼がもし、ニヒリズムでなく本当に、自身の言葉を信じていたなら余計に―。

なぜなら彼は、自身が”ゲーム”を通じて是正したかった人々のそれよりも、さらに無様なものが、自分の無意識の底にどっしりと横たわっていたことに、彼はついに最後まで”無自覚”だったから。

そんな者が超越の視座で「SAW(みた)」と気取る―哀れで、そして滑稽だ。





”ゲームをしよう”―余話として

そんな哀れな彼に、もし自分が彼と同じ立場にたてるのなら、こういうだろう。

「ゲームをしようw」

まず逃げられないようにしたうえで正座させて、書見台を前に固定ささせる。
書見台には山本周五郎の小説だ(爆笑)。

それを音読させる。

なに日本語だから読めない!?

特別に英和辞書も一緒に用意しよう。
制限時間?そんなモンはなしだ、慈悲深いからな(笑)。
座布団は一枚までだw

それでちゃんと音読できなかったら、10分ごとにしびれた足をマジックハンドがもみもみするのだ!

つらいぞー、この試練は!?(爆笑)

で、どれだけ読めれば解放されるかって?

きまってるじゃん新潮文庫の山本周五郎作品全部そらで読めるようになるまでだ!(核爆)
(ちなみに60冊近くありますw)

ま、それぐらい読めば、ジグソウ君も、いかに自分のやってたことが哀れで詰まらんことかというのがわかると思うよ。

人は彼が思うよりも、もっともっと残酷で、そしてもっともっと豊かな存在だ。

「こんなモン」

そう思った時点で、あったはずの未来と全ての可能性は―すべて失われる。


樅ノ木は残った(新潮文庫)




ま、たかがホラー映画にこんな真剣に文章書く必要もないっちゃないのだが、本作を単なるB級ホラーでなく、一つのテーマを持った作品として解題する場合はこう言わざるを得ない。

そういうわけだ。




※あ、あとね演出だろうというのをわかったうえで、野暮を承知で言うと(苦笑)

あんなギアむき出しのギミック、

間に布つめりゃそれだけで回らんようになるんでない?

おどろおどろしい意匠に凝るわりには、ジグソウ君も仕事が雑だよなあ。

いや、と言うよりか―


硬質な否定の意識しか持たないものには、布というものの、静かでや柔らかな力が想像できない―?


そういうことかな・・・。


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