所用で、隣の町まで。
銀行やら金融機関まわって、本屋のある駅前付近。
ここではファーストフードなどが入っていて、オープンテラスになっている。
最近オープンテラスは増えてきたが、どこも同じというわけではなく、駅の性格によって雰囲気が違う。
ターミナル駅の若い学生やサラリーマンなどが多い区域では、ごく自然に見えるが、ローカル駅の年配の人がおおいようなところでは、なんとなくぎこちなさ、あるいはある種のだらしなさが漂う。
今回見たのは後者。
ポロシャツ着て野球帽を被った、でっぷりとしたおじさんが、しかし窮屈そうにいすに腰掛けている。残念な感じ(苦笑)。
これをみたときに、そちらがオリジナルだからとはいえ、欧米のそれとこの景色の違いは何だろう?
ふと、そう思って、いろいろ考え始める。
結果、その違いというのは、オープンテラスという、いろんな意味で”オープン”な空間、そこを制御する見えない”ルール”の違いにあるのかな、と気ががついた。
上述の野球帽のおじさんは、ここがこういった”公(おおやけ)”を感じる場所であっても、もし周りが自分の知った人たちばかりであれば、そういったぎこちなさを一瞬で払拭するだろう。
そして(偏見を承知の上で)おそらく、時と場合によってはもっとハメをはずすに違いない―もし第三者が居れば目も当てられないような形で。
で、翻って、欧米―というか英語とキリスト教のいきわたっている文化圏ではどうか?
その場合、(これも偏見を承知の上で)おそらくハメをはずしたとしても、そこにはある程度の歯止めがかかるだろう。
その違いはなにか?
要は、その場を規定する不可視の”ルール”がなにに因っているのか、その根拠だ。
それが日本の場合は”場の空気”であり、英語・キリスト教圏では”GOD”なわけだ、おそらく。
そう気づいて、帰り道に図書館によって見ると、司馬遼太郎の対談集にそういったテーマを扱ったものがあり、しばし読んでみる。
そしてそこにはこうあった。
人間が自然や動物を飼いならしてきたように、人が人という飼いならさざるをえないモノを飼いならすための道具としてキリスト教はあったのではないか、と。
そういった宗教のツールとしての側面を、なんの修辞もなく、直球で言及していた。
そして、日本人はそうった宗教による”飼いならし”を受けたことがなかったのではないか、と。
手元に所持して読んだのではなく、文字通り図書館で最初の2章ほどを突貫で読んだだけなので、詳細は以降に譲る。
しかし、そういったキリスト教による”飼いならし”がその文明の根底にあり、日本と違って科学や技術で”征服できる”ある意味”穏やか”だった(コントロールしやすい)自然が、西欧の自然科学を急速に発展させた。
そしてその当時の最先端にふれた、明治の頃の先人たちが、それを社会的な構造含めて取り入れようとして、本来そういった”飼いならし”のツールとしては程遠い(アニミズム的な)神道をその代わりにしようとし、その構造をなぞる以上避けられない”絶対者”としての”GOD”を皇室で肩代わりしようとした。
(本来の”宗教”としての神道ではない、「国家神道」の誕生)
そのあたりから、すべてのひずみが始まっているんだ、というのは自分にとって重大な示唆だった。
いずれこの件はまとまって論考したいな、と考えている項目なので、今はおく。
(この司馬遼の本も手元に置いとく必要があるだろう)
国粋主義とか、右傾化した愛国心とかではなくて、よりよい相互理解のために―そのためにはやはりどうやら”キリスト教”というものの正体とその影響を、もうすこし勉強せざるを得ないようだ。
けどすこしアウトラインが見えてきたような気がする。
ここがわかれば、けっこう今の日本を覆っているいろんな問題の原因なり、問題解決の入り口ぐらいは、みえてくるんじゃないか。
そんな気がする。