震災・原発関連でtwitterなんかでの意見のやりとりみてて気づいたことあったのでメモ。
いまものすごくたくさんの人が、いろんな意見を、いろんなレベルで言い交わしているが、みなさん迷いませんでした?どのひとのどの意見が正しいんだろうって。
自分ももの凄く判断に迷うことが多々あって。
で、ようやく「あ、この基準で見ればいいのかな」というのが自分のなかで見えてきた。
これは「社会」とか「公共性」とか「世の中の在り方」とか、そういった「公論」を語る場合に限ってなんだけども、要は
「私情を”潜ませて”いない」
これは信用していい意見なんだな、と。
まず上にあげたようなテーマを語るときに、その主題ははっきりしている。
それはかんたんにいうと「みんなが幸せになれること」。
(そうじゃないという人も居ると思うが、ここでは置く)
で、それを実現するにはどうすればいいのだろう?と意見を交わすのが「公論」。
そのときに、人それぞれで「視点」は持っていていいんだが、そこに「私情」とか「イデオロギー」が絡む。
それらが絡むのも人間が議論しているからありなんだが、原点の「みんなの幸せ」というところへ戻るときに、自分のそれをひとまず取っ払えないひとはダメだな、と。
もちろん状況を具体的に設定して、それに絞っているとき、それに矛盾していなければそれでいいんだが、それをこえてもっと根源的なもの―歴史とか文明のスパンで物事を語ろうとしている際に、たかだか戦後数十年の資本主義経済のロジックの中に矮小化させてしか語れない(想像できない)言論人は、ダメだと思う。
(もちろんその人の専門の各論に関しては敬意を持って拝聴すればいい)
要は「公論」を主張している皮を被って「持論」を譲れてないだけの人はダメ。
よくあるのが「原発を止めれば経済的に日本は沈没する」という話。
これはある条件を設定して議論するのなら、ある意味正しい。
しかし、いま問題になっているのは、そういった「経済的」な話を支える(前提となる)「人の命」という、もう一段下のレイヤーが絡んできている。
そこに想像力が及ばず「経済が何より大切・だから原発推進」というのを、金科玉条のように語る言論人は、話半分で聞いておいたほうがいい。なぜなら「(資本主義)経済的な幸福以外に人的な幸福はない」というイデオロギーを、一時的にせよ、取っ払えてないから。
それは有力な社会的要素だけど、歴史・文明的なスパンで必ずしも人類にとって必須のものかという結論が出たものではない。(決してそれを軽視するつもりもない)
だが、逆に言うと、「人の命」至上主義も、イデオロギーと化すと話が別になる。
これはやはり戦後左翼文化の重大な罪だと思うんだけれども、大抵これを声高に主張する人は理想主義的な方が多い。
それはそれでけっこうなんだが、やはり人間、飯を食わんとその「人命」を維持できんわけで、それにはやはり世俗の汚濁を引き受ける必要がある。
清浄だけでは人は―というか生物は実は生きていけないんだが、そういう「現実」をこういった方々は、イデオロギーとして認めたくない方が比率として多いようだ。
(これはちょっと生物学かじればわかる話)
そしてそういった方々も、「人命」を金科玉条にして、自分たちのイデオロギーのロジックを手放さない・強化しようとする。
そういうのもダメだ―これもじつはロジックの向いてる方向が180度逆なだけで、上述の経済至上主義の人たちと、同質同根。
逆にそのあたりをもっと「ドライ」に捉え、自分たちのイデオロギーをぱっと手放せる人たちの唱える「人命の大切さ」の場合は、緊張感を持って聞いたほうがいい。
要は、自分のこれまで積み上げてきたものがあっても、「公(おおやけ)」の目的の前には、潔くそれを手放せる人―そういう人たちは信じてよいと思う。
そして、こうは書いたが、こういうことを、一人の人が24時間常に体現できているわけでもない。
事情や状況によっては信頼できる人の言葉が危うかったり、持論にこだわる専門家の意見が、専門分野に関しては正真正銘である、ということが当たり前にある。
だからあるひとを丸ごとそのまま信用するのは、楽ではあるが怠惰である、そのことは忘れずに置くべきだろう、そのうえで―
そのうえで、やはりそういう「公の前に私情を捨てられる」という比率の高い人というのは居ると思う。
そういう人の意見を、怠惰に流れず緊張感を持って聞く―それしかないんじゃないか。
それが一応自分の中で出た結論。
それでね、こうは書いたけど実はもっと簡単で。
要は、やっぱりそういうことができる人の言葉って「品がある」のよね。
そして潔さと、ある種の淡々とした粘り強さがある。
(粘着性を感じない)
迷いはあっても、根本のところで「自分のできること」がわかっていて、そこに関して、奢らず・背伸びせずに腹くくれてるからだろうな。
そういう人で、なにかしらの専門性を持っている人たち。
その人たちの言葉が一番信用できる。