【レビュー】『聲の形 6巻』大今良時

標準

毎回レビュー書くのがつらい。おまけにしんどいので正確に読めてるかもわからん(苦笑)。

『聲の形(6) (講談社コミックス)』




本巻は西宮を助けるために石田が代わりに落ちてしまい意識不明・入院中の間のエピソード。

石田が自分の代わりに落ちてしまったことで、ヒロインである西宮の中でなにかが決定的に変質してしまったのか―彼女はこれまでの受け身の姿勢から初めて自らの意思で強く行動する。
その彼女を縦軸に、まわりのキャラクターたちのエピソードが個々に入る。

結果、この第6巻まで読んである意味初めて気づいたのだが、本作品に唯一の欠陥があるとするならそれは”親の不在”ということだろうか。もちろん本巻も含め部分部分でそれぞれの親は出てくるし、主人公とヒロインの親は常に登場している。

しかしそれも―決して差別的な意味で言う気は毛頭ないのだが―双方片親しか出てこないのよね。

そしてまわりの友人たち個々のエピソードで親が出てくるシーンでも、びっくりするほどその存在は薄い。確か以前の巻のレビューで「出てくる大人、全てがクズ」と書いたが、そこが全くブレていないということかもしれない。

で、少年少女たちは思春期独特の嵐の中を―それも特大の大嵐の中で翻弄されるわけだが、もうこれって大人不在で解決するレベルのこじれようじゃないんだよな。

そういう意味では、非常に非現実的な舞台設定でもあると思うんだが、ある意味これこそが現代のこれぐらいの年齢のこどもたちが置かれている”リアル”なんだろうか。

結局そういう家族としての「まともな大人」の欠落というのがなにになって現われるかという点について、本作はある意味べらぼうにわかりやすくて

ほぼ登場人物のすべてに共通する「健全な自己肯定感」の欠落である。

皆それぞれに些細なことだったり、ヒロイン西宮のような先天的で深刻なものだったり―その大小の差はあれ、皆なにがしらかのコンプレックスを抱えており、みんな自分がいやでいやでいやでいやで仕方がないヤツらばかりが登場人物なわけだ。そのくせ同じくらいつよくつよくつよく自分自身を肯定してほしい気持ちを怨念のように抱きかかえている―そういう気持ちを強く強くしがみつくかのように握りしめ続けていると言ってもいい。

本来はこういった自己肯定感の欠落というものは、まともな大人が近くにいればある程度は埋めてくれるはずなのだが―意図的なのか無意識なのか―このあたり本作ではまったくその気配すらも見えない。

だからそれぞれ登場人物たちは、ほんの些細なことをきっかけに誰かを依存の対象にしたり、誰かを憎悪の対象とせざるを得ない―その欠落がもたらす渇望感を埋めるために。

本作を読み始めた当初、もう少し障碍ということに対しての普遍性のある物語かと思って読み始めたのだが、こういう構造に気づいてしまうと、実はその見方が大きく的外れだったことが分かる。
むしろ聾啞というのはこういったひずんだ自己愛に悶え苦しむキャラクターたちを浮き彫りにするための媒質的に使われているだけで、実はこういったドロドロとしたコンプレックスをエンターテイメント化するための道具にしか過ぎないのかもしれない―これが著者の方が元から意図したところなのかはわからないが。

もちろん、こういったシチュエーションがあり得るだろうな、という舞台設定の巧さは流石だと思うし、こういったことが現実に全くないなどというつもりもない。

ただやはりまともな「大人」や「親」―もっというなら社会的な意味での「父親」的なモノの欠落は意図的なものとしか思えず、そこはやはりある種の欺瞞を感じざるを得ない。
(この場合の「父親」的なモノというのは必ずしも生物学的な成人男性であるということを指すものではない)

主人公とヒロインの親がそろいもそろって片親―それも母親という「囲い込もう」とする存在であることが物語を大きくこじらせているし、逆に言うとそれ故に「ドラマ」が成立しているともいえるか。

そして作中めんどくさいヤツを上から指折り数えていくと、それは全部女性キャラクターばかりである。

囲い込み、取り込み、自分のものにしようとする―自分の欠落しているものを自分自身では直視しないですむように。

この「囲い込む」というのは、思わず萩尾望都大先生の名作『エッグスタンド』の殻の中のゆでられたヒヨコの比喩のシーンを思い出すよなあ。

ヒヨコたちが母親という”殻”に閉じ込められ、縊り殺されそうなところで、その殻に亀裂を入れ、外の世界の「可能性」を見せるのが「父親」という社会性の象徴たる存在なんだが、本作ではどうやらその登場は望めないようだ。

そういったモノを最初から意図的に排除されたこの世界では、登場人物そのすべてが殻の中でもがき苦しむヒヨコのようなもんだろう―そら読んでてしんどいわ。
この強固な殻を自分たちだけの力で割れるか?ともがき苦しんでるのをニヤニヤ眺めて楽しむのが本作品の正当な楽しみ方なのかもしれない―もしそうなら自分はそんなモンまっぴらお断りだが。

とりあえずその辺りも含めてどういうところへ落とそうとしているのか―そこを見極めるまではいましばらく付き合ってみようとは思う。

いまのところ、まったく悪い予感しかしてこないんだが・・・。







※2022/06 標題の表記を統一、リンク切れを修正

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