本作を見てこの機会に書いておきたいことが少し長くなったので、分割する。
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本作はシリーズ最終作、ということだけでなくいわゆる宇宙世紀(Universal Century)モノと呼ばれる世界観のガンダムシリーズにおける一つの区切りをなす重要な一本となった。
その自分なりの解釈を、これまでそれなりにガンダムという作品に付き合ってきた身として、ここで書いておきたいと思う。
まずこのEP7には劇場では併映、ディスクでは特典という形でepisode exとして『百年の孤独』という宇宙世紀シリーズのガンダム作品を振り返る映像が付随する。
これは当初、本作のキーキャラクターの一人であり100年近くにわたって箱の守人として生きてきたサイアム・ビストの視点から、宇宙世紀を総括する意味で脚本は書かれていたようだ。
しかし、本編部分は事前に収録を終えていたものの、この追加映像への収録を前にしてサイアム・ビスト役の永井一郎氏が急逝される。そのため、最終的にはカーディアス・ビストをして語り部とした脚本が再構築されたようだ。
その映像を見た上で、劇場では本編が始まるわけである。
原作の福井氏は本作品に言及する際、都度都度このガンダムシリーズはもう歴史モノと同じアプローチがとれる存在になっていると発言されていたかと思うが、まさにそれを具体化したと言えるだろう。
”歴史”という世代の継承によって紡がれていくもの―そういった視点のなかでこのエピソードがある、ということを否が応でも意識させられる。
そのうえで、本作はそれぞれのキャラクターたちの最後のドラマが展開されるのだが、同時に宇宙世紀ガンダムシリーズにおける重要な二つの要素についても、雄弁に語っている。
一つは”宇宙と地球”の関係、そして”ニュータイプ”について―である。
まず一つ目の”宇宙と地球”の関係について。
実はこれまでのこの宇宙世紀シリーズのガンダムで、この両者の切実な関係性について作中のセリフとして明確に語られたことはなかったように思う。
その最大のポイントは実は宇宙は宇宙だけでもやっていけるという視点―その描写の欠落。
ここがわからないとなぜ宇宙移民と地球連邦政府がなぜあれだけ激しく憎みあうのか、その必然性が見えてこない。ここを明確に作中で表明したのは本作の功績の一つだろう(EP6でのフルフロンタルの演説)
そういった関係性を理解してはじめて、この”ラプラスの箱”をめぐる闘争が明確に意味づけられ、宇宙世紀ガンダムシリーズでの政治空間というものを―その宇宙世紀初頭から本作までの約100年という時間を―結果的に包括したストーリーとなった。これは改めて言及しておくだけの意義のあることだと思う。ここはほんとうに良くやった。
もう一つは”ニュータイプ”論。
これはここまでのシリーズの中で”人の知覚・認識の拡大”という部分とは裏腹に、ややオカルト的な描写にならざるを得なかったと思うのだが、本作もそこから逃れられてはいない。
とはいえ、人の感応波をを具体化させるという”サイコフレーム”をより一層明示的に設定の中に取り込んだことで、そのあたりにようやく整合性を見つけたように思う。
(もちろんこれまでシリーズの中にもそういったモノ・ガジェットの描写はあったが、ここまで核心の一つとしては据えられていなかったのではないか)
そしてそういった舞台装置を用意していたからこそ初めて、”人はいつか互いに言葉を交わさずともわかりあえるようになる”=ニュータイプという存在の”行きつく先”について踏み込んでいけたのだろう。
それは極めてしまうと作中の最大の敵・フロンタルのように虚無の果てまで行ってしまうか、バナージが危うく行ってしまいかけた”虹の彼方”へ行くしかない―しかしそれではもう肉体をもった人としての意味はなくなってしまうのではないか―そういったぎりぎりのところまで、本作は果敢に描写しようと試みた。
もちろんこの提示された内容に賛否はあって当然かと思うが、これまでのシリーズの中で描かれてきた描写を、最大公約数的に捉えるなら納得できる描写だ。
そしてそういった領域へと半ば踏み込んでしまった主人公・バナージを押しとどめたのは、いまは亡き父の魂と、最愛のオードリーという肉体を持った存在だった。
一部ではネタにされていたようだが僚友であるリディが、そんな危険な領域まで踏み込んでしまったバナージを必死に留めようと追いかけながら「そんなんでミネバ(オードリー)を抱けるのかよ!?」と叫ぶのは実はものすごく核心をついた言葉なのだ。
この重要性はガンダムという作品のはじまりであった『機動戦士ガンダム』冒頭の―そう、永井一郎氏のあのナレーションの一節を思い出して頂ければと思う。
そのうえで、その短い人生の最後の最後まで、幸薄い道を歩まざるを得なかったもう一人のヒロイン・マリーダの女神のような微笑みが、いつか我々がその虹の彼方の果てにたどりついた時のあるべき姿として―真のニュータイプとして行きつくべき果てとして描かれる。
そしてその”先人”としての”あの3人”の声が聞こえてくるわけで。
彼らの声が、虚無に魅入られたフロンタルを誘(いざな)い、バナージの「それでも」という希望への熱が、その虚無を崩壊させる。
一部狂信的なファンには不興を買っているらしいこの描写だが、自分はとてもよかったと思う。
もうそろそろ彼ら三人も一区切りをつけてあげるべきタイミングだろう。
宇宙世紀の100年を総括し、そこで生まれたニュータイプという人の革新―その可能性。
そしてそれが生まれたが故に、当時の人々の目いっぱいの善意でつづられた”ラプラスの箱”―その希望の言葉が呪いに変わり、その呪いを宇宙移民の姫巫女であるミネバがほどき、ようやく宇宙世紀は新たな次の100年を迎えることになる。
本作はこれまでのシリーズのそういった核心の部分を、果敢に総括しようとした作品であった。
また、父と子―世代と世代との継承もこの物語のテーマであったが、上記のことも含め、ようやく本当に次の世代へとバトンが渡される、その区切りとなる作品となったのではないか。
ここでは書き切れなかったが、作中くりかえし出てくる「大人として」という言葉―責任を持った大人=父性も本作の大きなテーマの一つであったかと思うが、それは責任を負う者として”次の世代”へと社会を、世の中を手渡す=”託す”こと―その重要性も含まれていると思う。だからこそ我々大人は矛盾だらけの日々の中にあっても腐らず、精一杯生きなければいけない、と。
ガンダム世界の創始者である富野監督が諸処のしがらみで閉じきれなかった幕を(*)、監督の作品を愛し作家となった福井氏が自身の手によるこの作品で一区切りさせたという、これもある種の継承。
それに不満足な方はどうぞ自らを磨いて、我こそがその真の継承者たらん、その場に立たん、と欲してほしい。煽りとして言うのでなく、これは本当に期待している。
賛否はあれど、福井氏は少なくとも自力でそこまでたどり着き、この物語を皆に問うた。
そしてロボットという線の多いものが活躍するアニメーションとしても、おそらく本作は手書きでこれだけ動かす作品としては最後の作品のひとつとなるだろう。
そういったことも含めて、時代の継承、その節目を強く感じた。
それをこういう満足感のある作品で体験できたことは幸運なことだったと思う。
スタッフの皆様の尽力にただただ感謝―それだけである。
そしてこの物語を見た子供たち―次の世代の担い手が、いつかこれを越える新たな物語を描いてくれることを願って―。
まだまだ書き切れないことが多いが、いちおうここまでとしておく(笑)。
そのうえで蛇足を承知で書くのだが―EP6がマリーダの章だとすると、本EP7はシリーズ最終章であるとともに弱さを持った”普通の人間”リディの章でもあったように思う。
本エピソード終盤での彼はすごく魅力的だ―それは彼と同じ弱さを持つ我々へのエールのようにも思える。
(以下はネタばれを含んでいるので、気になる方は本編視聴後にご覧になってみてください:初回はコメント非表示を強く推奨w)
(*)これは『逆襲のシャア』の素案である『ベルトーチカ・チルドレン』のあとがきを参照されたし。
個人的には『ベルトーチカ~』のほうが”本来のガンダム”を全うできていた可能性が高かったと思っている。
皮肉なことにその『ベルトーチカ~』が来月からコミカライズされるとのことだが、これも本作の例の描写でひとつの”区切り”がついた故なんだろうな、と個人的には感じた。