【レビュー】『バガボンド 35巻』井上雄彦

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インタビューなどを読むと、どうもそれ以前からそういう傾向はあったかと思うが、吉岡編終了以降というのは”著者・井上雄彦”という存在自体を、試行錯誤含めてLiveに表現している傾向が強まっているように思う。

『バガボンド(35) (モーニング KC)』



伊織と暮らす生活をつづけ、自身の中を見つめ続ける武蔵。村を襲う”水”は小次郎の影を映し、田を耕せば”土を殺しているかのよう”との声。挙句は極限の村を襲う蝗の大群―そしていまだ消えぬ”我執”の炎。
武蔵の自己との戦いが続く―。


吉岡編以降、特に休載以降の本作は、明らかにそれまでの勢いと違って、非常に作品の方向性自体に逡巡、というか迷いが見られるように思える。

本作に単純なエンターテイメント性だけを求めている向きには、それは作品の失速を意味するのかもしれないが、冒頭に書いたLive性の部分に気付いている読者にとっては、なかなか興味深い展開といえるだろう。

作者・井上氏の力量が全く衰えていない、というのは並行して連載している『REAL』を読めば一目瞭然で、そこに疑問の余地はない。

ではなぜ、本作のほうは一見堂々巡りのような状態が続いているのか、というと、やはりこのバガボンドのほうが井上氏にとって、自身に大きく挑戦の意味を課している作品だからだろう。

休載に至る経緯を述べた『空白』だったか、別のところだったかは忘れたが、『REAL』のほうは全部把握できていて、コントロールできる状態で描いている的な発言を読んだ記憶があり、それに対してこのバガボンドのほうはそれこそアスリートのように、あるいは武術家のように、自身に課したメンタルと作品の同調とでも言うべき境地に挑んでいるのだろう、と自分は解釈している。

だから、ある意味本巻でも繰り返される逡巡、というのは井上氏の中でも答えが出ていない、ということだろう。

(この逡巡を感じるのは―甲野善紀氏の言葉から来たであろう「生きる道は天によって完璧に決まっていて、それが故に、完全に自由だ」―の部分。本巻では、渓流の岩と水に例えて描写しているが、自分にとっては少し”浅く”感じる―こういった”浅さ”はこれまでの描写からはあまり感じなかったことだ。)

一見、エンターテイメント性に程遠い土との戦い―そして農作物という、あるいみ生命(いのち)の根源ともいえる部分に描写を割いている、というのは、やはりこの作品の根底に生命(いのち)―自分という存在をどう生きるか、というテーマを置いて、そこに真っ向から挑んでいるからだろう。

そして上述のLive性ということを考えるならば、やはりこの根幹の部分と、真っ向正面から向かわざるを得ないのは自明のことだ―氏の凄いところはここだろう、ここから一歩も逃げていないのだ。

(こんな人間の業の深淵を覗き込むようなテーマは、凡百の作家ならさっさと逃げ出しているだろう)

それは本作の最初のほう、宮本村でのエピソードのラストにもあったように「生きていいいのか?」と涙を流しながら精神的に蘇生するたけぞうの描写のころから明らかだ。

そして、それと並行するのが本巻でも繰り返し出てくる”自身”という「エゴ」との戦い。
(戦いというと語弊があるが、ここまでの描写はまさに戦いだ)

ここを潜り抜け、あるいは溶け合い、その結果どういったところへたどり着こうとしているのか?

こんな凄いことをLiveで見せているわけだから、スリリングでないはずがない。

無論、それはなかなか一見したところではわからない時があるのも事実なのだが、それはある種の”間奏”のようなものだろう。

井上氏が自身に”嘘”をつかずに描き続けている限り、やはり本書は自分にとって見逃せない作品である。







※2022/06 標題の表記を統一、リンク切れを修正

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