【レビュー】『バガボンド 36巻』井上雄彦

標準

切り合いのシーンがないにもかかわらず、それに匹敵する迫真の描写。
ある意味物語におけるさらに一段奥の”核心”へと進んでいるエピソードかと思う、凄い・・・。

『バガボンド(36) (モーニングKC) 』



伊織と共に暮らしながら、不毛な土地に挑み続ける武蔵。しかしその不毛の大地は容易に言うことを聞いてはくれない。「土の声を聞け」そう秀作に言われるがそれは容易には聞こえてこない。徐々に追い詰められていく弱い者―村人たちははじめ武蔵の強さを嫌悪し、やがてそれに一縷の希望を託し始める。しかし冬は容赦なく不毛な村を襲い、次々と村人が倒れてゆくなか、ついに武蔵はある決断をする―。

連載誌も読んでいたので、筋としては知っている=再読となるのだが、適宜加筆されているようで、より描写が核心に迫っている感がある。

ただ単なる切り合いのマンガとして見ている読者には、ここ数巻続いている展開の遅さというのはもどかしい以外の何物でもないと思うが、読む人が読めばかなりとんでもないところまで足を踏み込んでいっている、というのは明白だろう。

剣という人の命を奪うものを振るう存在の者が主人公の物語にあって、ではその命とは?ということについてまでも、きれいごとではなく逃げずに踏み込んでいこうとしている。

もちろん、実際の飢餓・餓死というのは、本巻での描写よりももっとえげつなく、救いのない光景が展開されるだろうことは容易に想像がつく。しかしそのこと自体は本書のテーマではない。

こういった描写を通じて命というものの核心―それを「本当の”強さ”とは?」いう問いを介して語ろうとしている、それが本書の非凡なところだろう。
そのための絶妙なバランスとして、本巻の描写は成り立っていると思う。

結果、巻末―ついに武蔵はこれまで達することのできなかった”ある境地”に達する。

次巻以降のエピソードになるが、強い―強いが故に弱い者の感覚がわからない―そういった事実にほんとうに気づくには、これまで独り己のみを頼ってきた武蔵ではあり得ないことだった。

村人たち、そして伊織という他者―自分より弱いものの存在を引き受けることによって、はじめて武蔵は次の次元への”強さ”へとようやく足を踏み入れることになるのだ。

人は人の中にあってはじめて”人”たり得る。

そして人の中にあってこそはじめてその”強さ”とは意味をもつのだ。
”強い”或いはなにかに秀でて、己しか頼むものを知らない人は往々にしてそれが見えない・わからない―このことを見事に描いて見せたエピソードでもあると思う。

それもここまで著者の井上氏が、作品の真ん中にどん、とおかれたテーマに対して、一歩も逃げず、誤魔化さず正面から相対してきたからだろう。
普通はこんな作業はもたないと思う、メンタル的に―。

それだけの凄い仕事をされている、としか言いようがない―ただただ、脱帽です。

※また井上氏はこの間何度か伊勢にも参拝されていたようで本巻前後での稲作の描写がその核となっているのは、そういうこともあるのかもしれない。

(ご存知のように伊勢神宮というのは、神域内の供御等をすべて自製している)







※2022/06 標題の表記を統一、リンク切れを修正

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