結果的に富野監督2連荘になっちゃったな。
著作を調べていて、監督には珍しく新書体での出版、かつ「家族論」とついていたので、amazonで速攻注文。
前々から富野監督作品には、濃厚に「家族」とか「家庭」の在り方―それもどちらかというと「親子関係」にウェイトを置いた作品が多いと思っていた。
(ご本人も本書で「そればかりではなかったのだが」と仰ってるが、やはり圧倒的に多いと思う)
で、その通奏低音のように語られてきたテーマを「家族論」と名打って一冊にしているとあらば、読まずばなるまい。
そして、一読―。
基本、これまで作品で語られてきたことを改めて「言葉」に直されている分、非常にわかりやすいし、箴言のようにズバリと決まる、ぐさりと刺さる言葉のオンパレードだ。
”「時代の言葉」「時代の正義」に流されるな、抗え”というのは、ある種の核心とすら思う。
そしてたびたび言及されている「地に足の着いた」感覚とでも言うか―そういうものへのこだわり、というか重視というのは、いまの多くの人が忘れてしまった、もの凄くまっとうな感覚だ。
こういうまっとうな感覚を持った作家が、おそらくこの国においては思春期真っ盛りのティーンエイジャーが見るものとされている、アニメーションの監督であったということは、もの凄く幸運なことだと思う。
本書は「家族論」という視点を軸に、社会、そして時代をどう捉えていくか―ひいてはその中で、どう生きてゆくのか?ということを語っている。
そしてその思考過程・提言というのは、まさに本書で書かれている”ガンダム世代”的な自分たち以降の人たちにとって、実感しづらい、欠けているものへのサジェスチョンが大いに含まれていて、我々の世代のみならず、多くの人が読むべき内容だ、と自分は感じた。
惜しむらくは、本書は標題に「ガンダムの」と付けてしまったことと(これは本書後半からも、ご本人の意からは遠いことは見て取れる)、そのこれまでの来歴―作品からしか語れない側面があったからだろうが―作品の用語や人物名が文中でけっこう使われていること。
もちろん、それを蔑む気は毛頭ないのだが、こういったアニメ的な語彙を毛嫌いする人種はまだまだ多いだろうと思う。
そしてそういった思い込みで忌避されるには、あまりにももったいない、普遍性を持った知恵が語られている一冊だと感じただけに、そこが返す返すも惜しい。
語れない人ではない、むしろそういったものを抜きで語ったほうが、はるかに説得力のある方なのだ。
前回取り上げた対談集も、必読の一冊だと思うが、あの分厚さと値段に抵抗のある人はぜひこちらを手にとって見てほしい。
ましてやお子さんのいる家庭をもつ世代の方には、もの凄く大きなヒントが書かれていると思う。
あと一点、本書そのものからは外れるが面白いな、と思ったことが一つ。
それが宮崎駿氏との対比だ。
(本書には宮崎のみの字も出てないのでこれはあくまでもこの場の私見である)
同じアニメーション作家、ということでいうのなら、世間の評判も、実際の監督としての技量も宮崎氏のほうが優るだろう。
しかし、実は宮崎作品で見事なまでに、すっぱりと欠け落ちてるのが、富野監督が執拗なまでに描いてきた「家族の在り方」の問題だ。
まてよ、隣のトトロとかあるじゃん?という声があるかもしれないが、あれが家族の話ではなく、あくまでも少女の冒険譚であり、それに自然(といっても人工の自然だが)を絡めた、一種のファンタジー作品だというのは良く見ればわかるだろう。
少なくとも「家族」そのものはあの作品のテーマではない。
宮崎作品で、おそらく家族について真正面から言及したのは、たった一コマ。
原作版の『風の谷のナウシカ』で「母は優しかったが、私を愛さなかった」とナウシカに語らせるその人一コマだけだろう。
(同じくナウシカ内でクシャナのエピソードなどもあるが、あれもクシャナという人物の”動機”は語っているが”テーマ”そのものではないと思う)
宮崎作品は自然や人類史的な大きな視点を持ちうるが、実はけっこう足元の、身近な人と人との関係性―家族のもたらす汚濁には、意図的に目を瞑ってスルーしているような気がする。
だからこそ万人がエンターテイメントとして楽しめるのだろうが、実は”世界”を考えるときに、そこを避けて通っては何も生まれないし、そこを避けて”世界”だけを捉えて生まれてきたのが、オウム真理教のようなメンタリティだ。
家族とは、子供が育つ土壌である、と富野氏は言う。
その土壌がやせ細っているときに、その土壌の話をスルーして世界だけを語っても”世界”は救えないのではないか?
宮崎氏の作品、とくに原作版の風の谷のナウシカには深く感銘を受けた上で、敢えて、こう綴ってみる。
また本書で富野監督は「アニメは公のものである、という視点が必要だし、公である以上、人が”病む”ものを公に流してくれるな」と自身も失敗したのを認めたうえで、述べているが、これはおそらく宮崎氏のある種の直弟子とも言える、庵野秀明氏のエヴァンゲリオンのことを指して言っていると思われる。
ここが非常に面白い、というと語弊があるが、やはり面白い。
おそらく、家族関係に深く悩む人たちにとって、そういった”病んだ”ものというのは独自の吸引力を持つし、本書でも言及されているように他者に向かって語りかけているように見えて、鏡のような自身に語りかけているだけだ―これもその通りだとは思う。
問題は、その自閉してゆく自己の鏡の先に、何らかの外へと向かう「自己反射でない光」を、作品として見出しうることが出来るのか?
そこでしょうな。
エヴァに反駁して作ったのが、ブレンパワードだと聞いているので、その反駁をうけ、かつその後実生活で伴侶を持った庵野氏が、現在リメイク中のエヴァでそのあたりにどう応えるのか?
これはけっこう、見もののような気がする。
(―いや、といいながら、実はまだエヴァ見たことないのよね(^^;) )
これも一つの”継承”だ。
その継承の母体となるのが”家族”である。