8月、ということで二本連続で見てみた。
父親たちの星条旗![]() |
硫黄島からの手紙![]() |
『父親たちの~』は初見。
戦争を題材とはしながらも、例によってアメリカ社会における「家族」の在り方=引いては社会の在り方を考える、という90年代後半からのイーストウッド作品の通奏低音の流れている作品。
この手の作品を見ていつも思うのが、アメリカという国の持つダイナミズムの幅と、それを社会的なシステムとして運用を確立させていること、その凄さ。
松本零士の『ザ・コクピット』かなにかだったか忘れたが―違ったかもしれない―アメリカは技術のない初心者でも運用できる兵器と仕組みで戦争をし、日本は熟練者が神懸り的な技で運用してはじめて力を発揮する兵器で戦争をしている、的な話をイヤでも思い出す。
(ただしこれは、技術が属人的なものでなくなる、ということも意味しているのであらゆるものの徹底的なフラット化=グローバリズムそのものに通づる)
そういった「余裕」のある社会システムの上で行われるものでも、戦争は戦争―。
むしろそういった戦場以外の余裕の描写が見えれば見えるほど、本作の主人公たちの悲惨さがコントラストされていく。
戦争は戦争、と書いたが、その”非日常”の代表選手のような戦争という行為においても、実はその社会のもつ”日常”の延長線上に、確固として存在する。
彼らを待ち受けていた悲惨さ、というのは実は戦争に行ったからではなくて、戦争に行くまでもなく、実は普段なにげなく過ごしているその生活、そのなかに常にあった、ということなんだろう。
戦争は、内在化されていたそれを、顕在化させたに過ぎない。
そして『硫黄島~』―。
これは二度目なので、もう詳しくは書かないが(前blogで記事にしてるので興味ある方は探してみてください)、ここに描かれている悲劇というのは、この2011年でもまったく同じ形で、東北の被災地で繰り返されている。
精神論で作戦立案する軍事官僚、精神的に追い詰められ「空気」で自決していく兵士たち、「そんなご時勢じゃないんですよ!」と声を荒げる婦人会の女性、見せしめのためだけに罪もない犬を射殺する憲兵。情勢が圧倒的に不利な状況にあるのに敵ではなく味方をイデオロギーで切り殺そうとする士官・・・。
(こと原発の問題に限って言うのなら、推進・反対の双方に上に書いたようなメンタリティは全て見つけられる)
立ち居地やディティールは異なっていても、ここ数ヶ月で見聞きしたような話ばかりではないか?
いったい「我々がここで一日敵を食い止めることで、本土はその一日分安泰を得る」と文字通り決死で戦った先人たちに自分たちはなんと顔向けすればいいのだろう?
いま見れば、いやこの震災のいまだからこそ、この映画は見直す価値がすごくあるように感じた。
そして一つ言えるのは、現実を知り、合目的的に行動しようとする人は、決して他人を罵ったり、皮肉ったり、足を引っ張ったりはしない、ということだ。
キレイごとなんじゃない、そんなことをしている余裕がないということがわかっているからだ。
翻ってみて、いまの我々はどうか?
自分は恥ずかしさで穴があったら入りたいぐらい。
しかし、それでも我々は、自分たちの足元のことを淡々と、しかし誠実に―こなしていくしかないんだろう。