月ぎめレンタルで。
幾つかの賞を受賞、というのは納得。
が、素直にそのままうなずけないところもあった。
人が生きる意味とは、そして父と娘の物語でもあり、自らの人生を”戦う”人たちの物語でもあった。
あらすじは敢えてここでは書かずにおくが、こういった世間一般でいうところの”逆境”に生まれた人間にも、生きがいや、生き切ったからこその”意味のある人生”がある、ということを提示しているところには深く共感する。
公開当時は、キリスト教右派や尊厳死団体から抗議や論争もあったというが、わからなくはない。
ただ、そういったある種”原理主義”的なものを含んだ団体(その性質上含まざるを得ない)が噛み付けたのは、意外なほど、物語としての構造はシンプルだったから、といえるのではないか?
そのシンプルさのなかに、アメリカ社会のもつ本質的な部分の物語が含まれていた故に、アカデミー賞受賞(作品賞・主演女優賞など)もあったように個人的には思う。
そのうえで―いや、だからこそ、自分としてはその物語としてのシンプルさが気になった、老優イーストウッドだからこそ”人生とはもう少し複雑なものだ”ということを示し得たのではないか、と。
いわゆるプア・ホワイト・トラッシュの家庭に生まれたヒロインは、確かに彼女の人生を生き抜いた、満足して生き抜いたと思う。
それはそれで十分に生きた甲斐のある、幸せな人生だっただろう。
しかし、いつもこの手の話を見聞きして思うのだ。
そう生きざるを得なかった、真の原因を越えていってこそ、ほんとうの勝利なのではないか?と
だが、これもいつものことだが、そこに立ちふさがるのは、実は彼女らが心の底からほんとうに欲して、でも得られないもの―「家族」という問題だ。
ほんとうに、つくづく「親子関係」というのはひとつ間違えると強固な毒―救いのみえない”呪い”そのものだ。
本作でヒロインはイーストウッド演ずる老コーチを得ることによって、失った自分をほんとうに肯定してくれる存在―「父親」を再現し、最後の最後で呪いをといて人生を全うできた。
そういう意味で彼女は幸せだった。
ボクシングという「運命」と、コーチという無二の存在に出会えたから。
だからこそ”死ぬことと見つけたり”ではないが、やり切れたのだろう。
ただ、だからこそこの物語は、”現在”という複雑な社会を生きる我々には、少々物足りない。
なぜなら、彼女が”運命”と思えるボクシングを見つけられたのは、いろんな意味で「もう後がない」―彼女がそれぐらい追い詰められた存在だったからだ。
我々は違う。
そこまで追い詰められもせず、恵まれてもいない。
そういったメリハリのない毎日のなかで、徐々に燃やすべき命を無為にすり減らしていっているだけだ。
しかし、こうは書いたが、現実(リアル)という重さの前では、このぐらいの勝利でよしとしなければならない―そういうイーストウッドの年齢ならではの達観があった、ともいえるかもしれない。
どちらにせよ、この”現在(いま)”という複雑な時代に、こういう一昔前のシンプルな物語としての”自分の運命”を見つけられた人は幸せだ。
ほとんどの人は今の時代、そういったものを見つけられず、生きていかざるを得ない、そのことは変わらない。
だから、その”解”なり”ヒント”なりが見えてこないこと、そこはやはり、残念だ。
いや、答えはわかっているのだ。
それは”覚悟”という、たった二文字に過ぎないのだが―。
人を選ぶ映画ではあるだろう、とは思う。
しかし見る価値のある一本だった。
※こういったテーマの部分を抜きにしても、ヒロインの出自すら身振りだけで匂わせてしまうヒラリー・スワンクの名演や、当然ながらイーストウッド、モーガン・フリーマンの両雄もいい。
ただ、若い人には上記のような理由で、ストーリの基本構造の持つ性格以上のものは、ピンとこないかもしれない。
(またピンとくる若者が増えているとすれば、それはそれで不幸なことだと思う)
そういう人たちには押井守の『スカイ・クロラ』をおすすめする。
アニメーションであるということを含め、いろんな意味で本作と対極の映画だ。
この一文に”ひっかかった”人は機会があれば一度ご覧になることをおすすめする。