書名と内容が羊頭狗肉なのは毎度のことだが、ぽろっと読むのにはちょうどいいんだよな。
意外に日本人だけ知らない日本史 (講談社プラスアルファ新書)
以前に一度も植民地になったことがない日本という、同著者の本を読んだことがあって、それなりに楽しめた。
前著と同じく、繰り返し読めるタイプの本ではないんだが、気楽に読めることと、最近国際化ってなんだろうと考えることが多かったので、久しぶりに。
このデュラン・れい子氏、元はコピーライターで、スウェーデン人のご主人と国際結婚されてから、版画家として活躍されているとのこと。ウチの母親ぐらいの歳の方なので、こういった生活をされた方の嚆矢でしょうな。
で、著者の生活圏である欧州での話題を中心に、日本との違いを等身大の視点から語られていてなかなかおもしろい。
(なので”日本史”と大仰なタイトルがつくのが羊頭狗肉なわけだ)
今回は冒頭、タイトルにあわせるためか、パリ講和条約での日本による人種差別撤廃提案の話題に始まり、
・欧州での”昔”ということばのスパンの長さ
・仏での”同棲”という一見ふしだらにもみえるスタイルのなかにある、キリスト教圏ならではの誠実さ
・パリ市のアーティスト支援の虚実
・英仏での移民問題
その他もろもろの話題を、欧州と日本を行き来する著者ならではの視線で比較している。
個人的に特に興味深かったのが、日本の若者が海外に行かなくなった、というトピック。
著者はこの点について想像できるように「もっと外へ出ないと!」と発破をかけているんだが、実はなぜ今の若者がそうなのかについては、明確な答えは出していない。
素朴に、なんでだろう?というところで終わっているようだ。
しかし面白いのは、その答えが、本書を最後まで読むと、語らずとも自ら現れてしまっている点。
そう、その答えとは”グローバリズム”の問題だ。
本書後半で、著者が海外に飛び出した頃のからの先輩でもあり、親友でもあるという”サチコさん”との話が出てくる。
1970年代はじめ、二人が旅したロンドン・パリ・ミラノ、そのファッションの話だ。
当時はその場所が変われば、マキシ、ミディ、パンタロンと、それぞれ女性のファッション・スタイルがはっきりと違っていた。
つまり当時、それぞれの国にはそれぞれ独立した流行があり、そこを旅した二人は、その違いに新鮮な驚きを感じた、と。
しかしいま、この時代にあって、もうそんな話はありえない。
(統合を果たした後の欧州なら余計そうだろう)
もちろん細かな差異はいまでも残っているだろうが、当時の著者たちの感じたような感動がそこにあるだろうか?
いまではどんな貧しい国にもテレビやラジオやネットが入り込み、緩急の差はあれ、アメリカをはじめとするスタンダード化された、定型的な西欧文化のフォーマットが全世界を覆い尽くそうとしている。
それはグローバルスタンダードという名をつけられ、経済力という名の、目に見えぬコントロールのための仕組みを全世界に張り巡らしつつある。
その具体的な尖兵が、テレビやラジオ、携帯電話に代表される、かつては我が国がもっとも得意とされてきた分野の商品だ。そういう意味ではここ数十年、我々は間違いなくその最前線に居たことになる。
だから、ね。
感動しなくなってしまっているんですよ。
全世界のベクトルが細分化・ディティール化の方向ではなく、単一化・単相化へと向かい、くわえて上記のような便利な文明の利器が、”見知らぬ異国”の姿かたちを、リビングに居ながらに、易々と伝えてくれる。
それはまた、かつてそれぞれの国にあったはずの、その土地その土地ならではの文化や生活、その香りたつような濃厚な匂いというものを、同時に希釈化させてしまってもいる。
テレビやラジオがあり、ある程度の英語の通じるところからは”驚き”が圧倒的に少なくなってしまっているのだ。
そんな時代―このグローバリズムの世にあって、そういった”驚く”レベルの感動を得られる場所は少々リスクが高くなりすぎ、我々は相対的に弱くなりすぎてしまった。両極端なのだ。
それが、我々からどんどん”動機”を希釈化させていっている。
もちろん、現地に触れれば現地でなければ触れえぬ風に、多少なりとも触れ得るだろう。しかしそれすらも徐々に消費され、その過程でどんどん磨耗していっている。
結局、差異や違い―それが感じられないところに驚きはなく、驚き(感動)のないところに成長はありえない。
そして実は、そういった感動を得るためには、自身のしっかりしたルーツと、他者の独自に積み重ねてきたそれとが、各々不可欠なのだ。
人はそれを歴史とか伝統という。
その差異を尊重し、驚き、感動して、それを自らの心の糧とする。
それが本来の国際化だ―だからほんとうの国際人=自国の歴史と文化をちゃんと知っている人たち―であるはずなんだよね。
(そしてそれはそんなにイージーなものではなく、それなりに身に付ける努力を要とするモノだった、本来は)
しかし、一見、表面だけは「それ」(国際化)に酷似したグローバリズムという”なにか”が世界を覆い始めている。
そして実は、そのロジックの背景にあるのはキリスト教という・・・・・。
以降は機会があれば(苦笑)。
※これをしっかり論じるためにはあと二冊ばかり読み込まんといかん本があるわけだ、ふぅ。