沈黙/遠藤周作

標準

ハリウッドで映画化が進行中のようだが、某女優さん監督のとんちんかん映画に絡んでネトウヨな皆様が「すわ、また反日か!?」と騒いでらっしゃったのでwikiを確認してみると非常に興味深いストーリー。
そういった外野の雑音に惑わされない+映像化されたときに真贋確かめられればと思い、さっそく読んでみた。

沈黙 (新潮文庫)
沈黙 (新潮文庫)

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遠藤 周作
新潮社
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かつて自分が師事していた慈愛深きフェレイラ師が”転んだ―”その信じられない一報を聞き、ポルトガルの司祭・ロドリゴは鎖国・禁教へと急激に舵を切る島原の乱直後の日本への渡航を決意する。厳しい航海を経て日本に潜入したロドリゴたちであったが、苦しい潜伏生活の果てについに捕まってしまう。拷問の末の処刑を覚悟し、そこにイエスと同じ道をたどるという一抹の恍惚を頼りに護送されていく彼を待っていたのは、いまや沢野忠庵と名乗るかつての師、クリストヴァン・フェレイラ教父であった―。

結論から言うと、素晴らしい傑作である。長く読み継がれているであろう作品らしく、どの書店でも文庫版が置いてあったのも納得だ。

これまで特にその著作を読んだことはなかったのだが、遠藤周作氏がクリスチャンとして著名なのは存じ上げていた。本作はそのキリスト教の本場である欧米ではなく、そこから見れば”異教の地”である日本のクリスチャンなればこそかけた一作だろうと思う。

昨今人をさらって金を巻き上げようとし、挙句の果てに無辜の人間を殺しまくっている砂漠ヤクザが巷で話題となっているが、彼らの建前はその”信仰”である。

彼らのそれは自分たちの都合のための自己欺瞞も甚だしい矛盾だらけのものだが、それでもその看板を掲げてはいる。
ではその信仰というものの本質とはなにか?と考えた時に、実はこれほど日本人からわかりにくい命題もないのではないか。

本書は本来のその核心である”信仰とは何か?”ということにある面から真向に切り込んでいる。

宗教を語る人は多いが、その本来のもつ意味やその信仰というものの核心まで突き詰めた上で理解し語ることのできる人は、実はいまこの時代の日本の中には皆無に等しいと思う。なぜなら皆恵まれているからだ。

事実、平和な国の―おそらくその最も恵まれた時代に生まれた自分としては、正直ここに書かれている”信仰”故の思索と苦悩の描写に深く頭を垂れるのはやぶさかではないが、このような在り方としての宗教、というのがあまり理解できない。

ただ、本書を読んで一つだけはっきり分かったことがある。

どんな宗教やそれに対する信仰も、その本質は外に向けられるべきものではなく、自分の内的なところに向けられるべきものであって、それをなにか外への働きかけの根拠とか理由にするというのは、信仰というものの本質からは遠くかけ離れているという事だ。

多くの宗教がらみの事象に対する違和感の原因というのはこれだろう。

自己の内的な信仰や信心、それはどんなものであっても侵されるべきものではない。
しかし、その信仰や信心を他者に強要してはいけないのだ。なぜなら信仰や信心というものは、そのひとりひとりの裡なる中に自発的にしかありえないからである。

だから本来の布教というものは形式的な儀式ではなく、その人自身の実際の行動―普段の生活の中のなにげない立ち居振る舞い―によってのみ現されるべきだろう、それ以外にないと思う。

それが他者の心を打って、その他者の中におなじ心の響きの萌芽をみたとき、それが初めて本来の布教の行いとなり得るのではないか。

宗教だけにかかわらず、自分がその裡に信じているものがあるのなら、それを淡々と自分が体現していけばいい。それが誰かの心を打てば、それは自ずと広がるだろう。
少なくとも信仰の名のもとに他者に銃やナイフを向けて報復するなど、”信仰”という言葉の本来持つ意味からは最も遠い場所にある行いだ。

信仰とは自身の内なるところにしかあり得ない―その葛藤も恍惚も。

結果的にそれを教えてくれたような一冊だった。

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