杉本文楽曾根崎心中@世田谷パブリックシアター

標準

関西出身なのにこの歳になるまでちゃんと文楽見たことないというのも恥ずかしいな、というのもあったが、なによりも興味あったので観に行ってきた。

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2013年の欧州公演で好評だった作品の凱旋帰国公演。現代美術家・杉本博司による演出・美術・構成という新規な要素と、近松の原文通りという原点回帰な要素という相反する二つを絡めた、現時点ならではの文楽、現代ならでは曾根崎心中ともいえる一作。




ということで初「文楽」だったわけですが、やっぱりこういう伝統芸能モノはチケット高いなー(泣)。
しかし最近は総じてライブモノの値段は上がっているので、1万弱というのは適価ではあると思う。

会場の世田谷パブリックシアターは初めてだったけど、非常にきれいで品のある場所。天井高めというか縦にスペースがある会場。見た感じは演劇などを想定して作られている会場のようだ。
今回は、文楽という日本独自の古典芸能ということもあってか、外人さんの姿もちらほら。
ただ、先ほどのチケットの価格のことも絡むと思うのだが、やはり客層は高齢層が多い。後述するが、文楽というフォーマット自体は非常に可能性を感じられるものだけに、正直複雑な気分ではあった。
ここが若い人でもっと埋まらんと”活きた”ジャンルとしての未来は厳しいかもしれんなあ・・・。

で、本編。

最初は観音廻りという、いちばん当時の宗教観が反映されているシーンからはじまるが、実はここがいちばん難解かもしれない。
しかし本公演は、ここでCG等のビジュアル的な演出をいちばん多く投入しており、バックの三味線の雰囲気とも相まって、ある種の”和風ゴス”というべきカッコいい演出に仕上げていた。

そう、ここではなんといっても三味線の魅力再発見といえばよいか―前述のCG演出の効果もあると思うのだが、なによりそのトーンが凄く雰囲気があって、その音色一発である世界が見える、というのはすごいなあ。
こういう雰囲気も、年月の中でそぎ落とされ・洗練されてきた”芸”ならではなのだろう。
これが伝統芸能の力か―。

三味線の音色というのは、日本独特の湿度を含んだ音ではあると思っていたのだが、どこかバンジョーを思わせる乾いた音も入り混じっていて、これは新たな発見だった。

この観音廻りの段はこれらの要素が絡まって、完全にゴシックホラーな雰囲気。ここは続く段との交錯をうまく演出できるのなら、もっとこの方向の演出を強めていってもいいのではないかと強く感じた。

これは、この段が前述のように観念的かつ宗教観への理解が必要で、故にいちばん分かりづらい部分であるということ+当時や現地の立地、その意味づけの把握が必要なので、いちばん分かりづらい部分である=本公演のようにとんがった演出をするにはもってこいでは?と思うからだ。

続いての生玉神社の段からは、ぐっとわかりやすくなる。
セリフもほぼ会話文となるので、6割がたは初見の人でも聞きとれるだろう。なによりここから文楽人形での”演技”の凄さがみえてくるので、観音廻りがオープニングだとすると、ここからが本編ということだろう。
生玉神社の境内で、徳兵衛・お初の逢瀬、そして九平次というメインキャストが出そろう。

しかしこの九平次、いまもむかしも知人から金を借りるやつのクズなパターンは一緒w
「いついつまでに金がないと仕事が立ち行かなくなる」と泣きつき、ちゃっかり金を返さず自分の遊興にうつつを抜かす、というのはまさに自分が去年そのコンボを食らったので思わずぼられた徳兵衛に思い入れしてしまい、九平次の手下にぼこぼこにされるシーンなどはこっちもクソ腹が立ちましたよ、とw

冗談はさておき、それだけ人形の演技と語りのシンクロが洗練されているということで、このあたりが文楽がここまで生き残っている理由の一つだと思う。
このあたりまで観音廻りを含め時間にして約1時間ほど。

ここで一旦休憩が入る。

後半は、天満屋の段から始まり、前段、生玉神社が徳兵衛のターンだとすると、今度はお初のターン。
緋の地に染め抜いた梅の暖簾がバックを飾り、天満屋の階段をふくめたシンプルな―けれど品のあるセットが組まれている。

ここで他の芸妓や天満屋主人、そしてダメ押しのように登場してくる九平次―それらの会話の中で追い詰められていく二人、軒下に忍んできた徳兵衛をかくまい、縁側に腰掛け内掛けで彼をかばい隠しながら、脚でやり取りする有名なシーンですな。

すこし他の芸妓や主人とのやり取りが分かりづらかったが、ここから太夫も変わって、迫力は倍増。
見せ場としては、お初の矜持・潔さというところか。

心中・相対死、ということもあるのかもしれないが、このあたり若干いまの若い人の感性では理解できないかもしれない。
自分も正直もやっとするものを感じないでもないのだが、このあたり今回は近松の原文通りとのことなので、今回に関しては不可抗力だわな。
ただ、テーマや物語としては非常にシンプルなので、今風に焼きなおすことも十分可能だとは思う。
また、ここでは唯一なにげにギャグシーン的なものもあり、起承転結で言えば”転”の部分であろうことがよくわかった。

そして最後の段・道行―。

ここからの演者が一気に六人掛かり、ということもあってか盛り上がりはすごい。
ただ、現代のスピード感になれている自分にとっては若干冗長にも感じたのも事実。

しかしその演出の持っていき方はやはりすごい。
人形の所作は遠目にも迫力。

現代の価値観からすると因果応報感が薄く、釈然としない感もあるにはあるのだが、原文に忠実とのことでそこは繰り返しになるが仕方ないので、目をつぶる。
むしろここでの二人の純さ、潔癖さを我々が忘れているともいえるかもしれない。
しかしその根幹に流れているものは現代でも十分通用するし、いちばん共感する部分でもある

そして二人のやり取りはピークを迎え、お初を手にかけ、徳兵衛もまた自らの手で自栽し、お初の骸の上に重なるように倒れる。

誰が告ぐるとは曾根崎の森の下風音に聞こえ。
取伝え貴賎群衆の廻向の種。
未来成仏疑ひなき恋の。
手本となりにけり。

以上ですぱっと終了。
(カーテンコールは3回もあったがw)

ここまで書いてきたように、いろいろとためになり・勉強になることも多々あって、観たかいのあった作品だった。なんだかんだいって、伝統の力・・・というか百年単位の風雪の中でそぎ落とされ、磨かれてきた芸の力というのはやはりすごい。

ただその凄さを認めた上で、これをいま現在ならではのものにアップトゥデートすることはできんのかなあ・・・ということについ考えてしまう。
その是非についてはいろいろ意見もあるだろうが、凄く悩ましい。

ここまで受け継ぎ・保ってきた伝統の技ならではの技術というのは凄いし、絶対残してゆくべきだろうととは思う。その反面、チケット代も含めやはりいろいろなものがハードルが高くなってしまっているし、それはいろんな意味での新たな”血”の流入も拒みかねないものだ。

ただただ”古典”として、その命脈を好事家の間で保っていくのなら、それもよいだろうが、個人的に、今回この文楽というものを初めて見て、その本質が内包しているものにはまだまだ可能性があるように感じた。
それを模索する方向は―伝統を維持・保持していく方向と並行して―あり得ないものだろうか?
そういったことを強く思った。

しかしそれは、誰かこういったジャンルに関して、正当な発言権をもつ血統とか才能をもった方の中から、本質的なところまでこの”文楽”というものを分解して、再度組み立てるぐらいのことがなければ、それは難しいのかもしれない。

それが簡単なことではないのも、あの歌とも語りともナレーションとも言えない、独特の節回しで朗々とうたわれる太夫?の声を聞いているとよくわかる。
ただ、それすらもぶっちぎって―例えていうならドールとか今風の人形で現代語を使った古典でない物語を作ってみるといった―蛮勇を振るえるような才能が出てこないと、そういう新風はあり得ないのかもしれない。
(このあたり、自分でも乱暴な物言いだというのは自覚の上だ)

とすると、この文楽というのはこのあともやはり”古典”として、その命脈を保っていかざるを得ないのか・・・。

繰り返しになるが、それはすごくもったいないような気がするのだ。
古典としての伝統の力を認めた上で、さらに新しいものをかけ合わせられるだけの余地は十分にあると感じられるジャンルだけに・・・・・。

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