これまた記事上げるのがおそくなってしまった。お伊勢さんの翌日に、その晩横浜方面に所用あるのと、テアトルの株主優待券あったので大森のキネカ大森にて。
自分にとってはたしか『千と千尋の神隠し』以来の宮崎作品―そしてこれまでみた中でのいちばんの傑作ではないか。
先の大戦である意味日本の象徴ともいえる戦闘機であった零戦を設計した堀越二郎。そのひとの半生を作家・堀辰雄を交えて人物造形し、かつての日本が世界に比しようと努力し、結果、時代の流れに巻き込まれていくまでを背景として、当時を精いっぱい生きた人たちの物語として描いた一作。主役の二郎役に庵野秀明氏を起用し、一部の音響を人力で行う、また監督の引退宣言もあり、内容以外にも話題となった。
物語の冒頭は主人公の少年時代から始まるが、まずその目のきらきらぶりが最初は気になった。
そして例によって宮崎作品らしいキャラの妹が出てくるに及んで
「あー、こりゃまたロ○コンと飛行機の映画になるのか~」
と、心の目が薄汚れてる自分としては思ったわけです、ハイ(苦笑)。
ところがところがさにあらず!
主人公である堀越二郎が青年の姿―そう、物議をかもした庵野秀明氏の声―に変わったあたりから、そういった宮崎作品独特の甘みの部分がすっと消えて、物語自体もしゃっきりとした印象に変わる―例えていえば、甘口チョコレートからビターチョコレートに変わったとでもいえば良いか。
もちろん、そのビターさというものがありつつも、本作の素晴らしいのはそのビターな部分と、甘さの部分がそれぞれ混然としつつもそれぞれの貌をはっきりと保ち、その上で作品全体としてとけあっているところだろう。
監督の作品は、もちろんこれまでもそういった現実のビターな部分がなかったわけではないが、これまでのそれは良くも悪くもスケールが大きく、それ故抽象的だったような気がしないでもない―例えていうなら”人間とは!”みたいな大風呂敷に作劇上ならざるを得なかったとでもいった。
ところが本作はそういった大風呂敷としての”現実”や”人間悪”ではなく、地に足のついた人間のどうしようもない悲しさ、愚かさ、そしてだからこそ同時に存在する人生というものの素晴らしさを、はじめて真正面から取り組んだ作品なのではないか。
監督がそういったものを描けない人ではない、というのは原作版の『風の谷のナウシカ』はいうに及ばず、本作のベースとなったシリーズの大日本絵画刊『雑想ノート』の数々の作品からもわかる。
ただ、なんというかなあ・・・これまではこういった真正面から人というものの存在に切り込むのに照れがあったというか―それを先日の引退会見だったかどこかで―「漫画映画」というものはそういうモンじゃない、という言葉でエクスキューズしてきたのを、本作では逃げずに真正面から取り組んだのではないか。
だから、ある意味宮崎監督の作品としては、”漫画”というエクスキューズを取り去った、初めての「映画」だったのかもしれない。
そして、自分はここで描かれている現実の複雑さ、その複雑さゆえの悲しさ―そして素晴らしさに、凄く心を打たれた。
全体として一言でいうなら、本作はとても”悲しい”映画だ。
だが、その悲しさというのは、すごく愛おしい悲しさでもあるといえばよいだろうか。
いま我々は、社会の発展のおかげで、この作品で描かれている時代よりもはるかに色々なことを体験でき、一見非常に豊かになったかのように見える。
しかし、ここで描かれているような、一つのことに専心し、一人の人を深く深く愛し、そして自ら夢に殉じた結果国を滅ぼしかねないものを産み出すなどという、密度の濃い生き様などは望むべくもないだろう。そういう意味で、ここで描かれている堀越二郎という人物は、そんな我々の世代に対する問いかけでもあり、あの時代を精いっぱい生き抜いた人たちへの餞(はなむけ)たる人物としても描かれているのではないか。
そういったことを表する人物像としての、ぎこちなさとその心の奥底に深い情熱と愛情を秘めた、この堀越二郎の人物像といい、昨今のがさつなヒロイン像に慣らされてしまった我々からすると、その曇りを一気に拭い去ってくれるような清冽なヒロインとしての菜穂子といい、なんだかんだいって、宮崎監督の悲しくて愚かしくもある人間への深い愛情といったものを感じる。
そして、そういった人間の持つ複雑さを時には問い、時には導く―ある種魔的な存在ともいえる―カプローニ氏の配置も忘れていないところが、その人間に対する視線の奥深さも感じさせる。
逃げずに撮った―だから監督は試写で涙もし、引退も宣言する、そういう心境に至ったのではないか。
ひとりの映像作家としては、まず間違いなく現代の頂点にいる一人といっていい方だと思う。
その方が、そういう境地に至って作られた作品であるのなら―これはかならず見ておくべき一作といって間違いないだろう。