シリーズの創始者にして初代監督、リドリー・スコットによる「エイリアン」シリーズの最新作。
”シリーズ最新作”というよりは新たなる”分岐”か。
プロメテウス
西暦2089年、スコットランドスカイ島で発見された約35000年前の古代遺跡の壁画―。
それは地球上の各古代文明の遺跡と共通するイメージが書かれており、数億光年離れたある惑星の衛星の座標を示していた。発見者であるエリザベスとチャーリー他17名は、ウェイランド社による探査チームとして座標の星―衛星Lv223へと赴く。
ここ数ヶ月かけて、これまでのエイリアンシリーズを全作復習はしておいたが、どうも前評判を聞くと「エイリアンシリーズとしてみるとちょっと微妙」という声が多かった。
なので、ちょっと自分的にその期待をクールダウンさせてから観にいったわけだが、確かにその傾向は認めざるを得ない。
ただしエイリアンシリーズである、とか、超大作である、といった先入観がなければそれなりによくできている映画ではある。
そう、リドリー・スコットという名前がなければ―。
ということで、これまでのエイリアンシリーズの前日譚にあたる話で、いろいろと謎解きになる部分が示されている。
その意味ではシリーズのファンとしては見ておくべき一作。
しかしその”謎解き”が結果、ファンたちの想像していたスケール感を超えることができていなかったことが、前述の評判につながったのだろう。
この理由の一つは、そういった明かされた”設定”の部分もそうだが、デザイン・ワークの軽視にもあるのではないか、というのが自分の所見。
これは実は本作に限ったことではなくて―。
ここ数ヶ月でシリーズを1作目から見直してみて思ったのが、意外と肝心要のエイリアンのデザイン周りの整合性というか、論理的なロジックに関しては成長が見られてないんだな、ということ。
どういうことかというと、各シリーズごとでそれぞれエイリアンの造型は、新規のアイディア(群体だったり犬型だったりニューボーンだったり)と表面上の工夫はされていて、それは確かにインパクトはあるんだけれど、
「なぜその形か?」
「なぜそういう生態なのか?」
という部分での説明の進化、というのは意外となされていない。
前作に該当するものに対して、それをきちっとやったのは、実は2作目(キャメロン版)ぐらいじゃないだろうか。
ご存知のようにエイリアンは宿主に寄生し、宿主を養分にしたうえ食い破って出てくるが、どう考えてもエネルギー変換効率凄すぎるわな、という。
人間一人の生体エネルギーベースで厚さ数センチメートルの鉄板をガンガンへこませ、大の大人を平気で振り回し、身体を八つ裂きにできる―そしてそれだけのことをできる巨体と筋力。
それを生成・維持するなら宿主もっとシワシワになるまで吸い尽くされるだろ。(苦笑)
まあ、そのあたりは演出の勢いで気にはならないんだけれど、シリーズ続けて見直してみるとやはりわかってきてしまう。
さらに加えて本作は”シリーズ以前”のデザインが出てくるわけだけど、これがなー(嘆)。
せっかくのギーガーのオリジナルデザイン、その”薫り”もなーんも残ってないのよ。
それは作中”エンジニア”と呼ばれる異星人のデザインもそうで。
たしかにギーガーという作家の作家性を考えると、本作の作風と方向性は大いに異なる。
元もとのギーガーのデザインというのは、彼の持ち味というか狂気性というか、一つ間違えればニンフォマニアとかネクロフェリア的な、一種の性的脅迫感にある。
(だからこれまでのエイリアンの頭部デザインが男根的なものを意匠しているのは有名な話)
そういった本来、生命の誕生に関わるであろうセックスの部分に、狂気性を孕んだオリジナルデザインがあったからこそ、エイリアンシリーズはただの安っぽい”SFホラー”にならずにすんだわけで。
※それがあったから二作目以降の”母性”とか”種の対立”的なテーマも生まれ得た。
だが本作は明らかにギーガーデザイン的なものは、排除されている。
(”エンジニア”の母船の描写がそうだ―これまでのシリーズと共通する部分以外は全部そういう”脱臭化”がされている)
こういった部分が欠けているからこそ、ちょっとこれまでのシリーズとは異質にならざるを得ない、というか。
だからある意味、共通世界の別シリーズとして考えたほうが良いのかもしれない。
その視点で―別作品として―本作を見てみると、主役のエリザベス(ノミ・ラパス)がなんちゅうかむちゃくちゃパワフルよね。
オートの外科手術機あるとはいえ、自分の腹部開腹手術やって、バチンバチンとホッチキスのようなもので縫合したかと思うと、にげるにげる、あばれるあばれるw
普通貧血起こして倒れてるっちゅうに(笑)。
おまけに最期の最期が「えー?そうきますかー!?」という。
ある意味”オリジン(源流)”をたどろうとするその根性、口あんぐり(笑)。
というところで、今後あるかもしれない”エイリアン5”とシンクロはするかもしれないね。
あと期待していたシャーリーズ・セロンは、演技抜群で最高だった(自分的には一番感情移入できた)んだが、あの最期がなー。なんかあっけなさすぎ、というか。
ただ、ここはエイリアン3におけるビショップ的な再登場はあるかも、という期待をさせるキャラクターメイキングの部分もあったので、個人的には(続編あるなら)再登場を期待する。
(本作だけで終わらせるのはもったいないよ)
まあ女性人二人が一番存在感があった、ということではシリーズを踏襲している、というのは言ってもいいのかもしれない。
そうそう、これも伝統的なお約束として、アンドロイドの彼(デビッド)も重要な役回り。
彼もエリザベスと同行した、ということなんだろうかね。
とまあ、このように駄文で長くなる、というのはそういう映画だったわけで、見て後悔―というほどでもないが、積極的にすすめたくなる一本というところまでは行かなかったのは事実。
個人的に近年、リドリー・スコットは徐々にその牙が鈍ってきているようには感じていたんだが、多分その原因はあれだ―。
最近の作品は、”煙ってるところで換気扇回って”ないからだw
きっとそうだ、そう思うことにするw
※本作、自分は3Dで見たんだけども、”必ず3D推奨”という感じではなかった。
ただし、飛行ビーコンによる光学スキャンのシーンや、ホログラム的なコンソール、ビジョンの再生シーンなど、エフェクトとしてはにまっとできる部分もあるので、そういうガジェット的なものがお好きな方は是非3Dでみたほうが良いだろう。
ラストのほう、宇宙船の破片が降ってくるあたりも見ごたえはあった。