お経と祓詞

標準

今年で厄年ラス一、ということで近所の神社でお払いしてもらったことなど。




人生なーんも結果残さず、未熟なままでも歳はとる(泣)。

そんな自分も本厄前後を過ごしておるわけで、べつに個人としてはなんともないんだけれど、さすがに去年までの無職→地震→お父ん死去ほか、という多段コンボを喰らうと

「さすがに御祓いしてもらっといたほうが良いか」

というのはちょっと前から思っていて。

しかし、なんだかんだで気持ち的にタイミングつかめずだらだらしてたんだけど、なぜか先日某所某神社にお払いとか関係無しに参拝したら、気力出てきまして。

ということで、前々からお願いするならここだな、と決めていた数駅となりの神社で御祓いしてもらってきた。

前日に一応問い合わせはしておいたのだけれども

「当日社務所でお申し付けくださればけっこうですよ」

とのことなので、普通に伺い社務所でお願いする。
午前中に伺ったんだけれども、もう先の組の方が数組御祓いを受けられてた。

で、しばらく控えの場所で待って、巫女さんに案内されて殿上へ。
自分のほかには安産祈願のご家族連れが一家総出でいらっしゃったが、けっきょく組数としては2組。

で、祓詞あげてもらい御祓いしてもらい、巫女さんのご奉納の舞も見れたというけっこうフルコース。

長すぎず、短すぎず。
(増えた体重でも正座の痺れが来るトコまではいきませんでしたw)

オマケに祓詞が大和言葉ということもあってか、すごく分かりやすい。

先だっては新盆で、実家にてお寺さんにお経を挙げていただいたが、それぞれにそれぞれのよさがある。
お経にはお経にしかない、迫力のようなものもあって。

ただ、個人的な心情としての”信心”のメンタリティとしては、神道のほうがしっくりくるのは事実。

思うに神道のほうがミドルウェア的な性格があるからかもしれない。広いのだ。
なので、個人的には勝手に

”生者の範囲は神道に”

”死者の範囲は仏教に”

的な解釈しとくか、と。(これは仏教が死とかあの世が近しいものに対して、神道だと死は穢れの範囲にある、というのを聞いたからかも知れない)

で、御祓いを終えて、境内併設の茶房でお神酒とお饅頭が出たので頂く。

一拝一拍手というのははじめて聞いた。
(これをしてからお神酒を頂くのだそうです)

まあこういう風に事後に茶菓などだしてのもてなしを頂くのはお寺さんでも一緒だよな。

ただやっぱりきりっとした清潔感のある巫女さんに持ってきて頂くとこちらも背筋が伸びるというもの。

やらしい気分でいうのではなく、綺麗よね、巫女さんて。
思うにその根源はやはりメンタル的な”清潔感”にあると思う。

とまあそんなこんなで、お下し品というのか、せんべいその他を頂戴したものを持って、境内を後にしたのでありました。

思うに、具体的になにが変わる、というわけはないけれど、個人的には神社いくと気分的に清々しい感じになるのは事実。
(今回結果的に殿上参拝初めてしてみて、余計にそれを感じる)

自分の精神構造と、神社の持っているいろいろな型というかスタイルというのがあっている、ということなのかもしれない。

最初に書いた某所某神社をお参りしたのはある小説を読んだからなんだが、そのなかに出てくる滝行とか、関連作品の修験道的な描写というのは読んでて惹かれるものがあるのは事実。

もちろん、実際にそんなことをやる根性も体力も心構えも何一つないんだけれど(笑)。

ただ”祓う”ということに象徴されるように、いろんな意味で清浄さを保つ、というのはさまざまな瘴気漂う現代社会だと、意外と大きな効果を持っているのかもしれない。

昨今は心優しいが故に心を傷めてしまう人が数多いが、そういう人たちこそ、ちょっと神社のあの清潔感で心を祓ってもらうと楽になるんじゃないかな。

そんなことも思ってみたり―。


つぎは三峰でも行くか?

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