ここのところ個人的な視界のなかで感じたことを。
久々に新宿のタワーレコードへいく機会があった。
個人的に2007年以降、いわゆる世間様で流通している音楽が自分のなかでは急速に色あせていってしまい、加えて一昨年から失業中ということもあり、積極的にCDを見て買って、ということには縁遠かったということもあった。
必要なCD、どうしても聴きたいCDは吟味した上でamazonで買う、あるいはシングル曲などであればitunesで買うなどしていた。
しかしtwitterで自分はなるべく一日一曲、生存報告代わりにyoutubeのリンクなどを貼るようにしてたんだが、毎日続けると、いかに自分のセンサーが偏ってるか、というのが自分でもわかるようになる。
なるべく新しめの曲を貼りたいと思うが(旬を過ぎたpopミュージックなんぞある種伸びた蕎麦のようなもんである―けっこう伸びた蕎麦貼ってますが、伸びきると”定番”になるっちゅうことにしといてください:泣)それをやろうとすると、みごとボカロ絡みのものしか出てこない。
自分にとって音楽は他のものより少し”大切なもの”である。
なのでこれはいかん、と思ってた。
どんなに蓄積があっても”流れて”ないものは死んでいるも同然なのだ。
しかし、某まとめ系サイトなどでオリコンの売り上げチャートなどがまとめられていた記事があったので見てみたが、正直愕然とした、アゴはずれるかと思った。
もうほんと見事にアイドルグループしかランクインしていない。
おまけにそのほとんどの曲が聴いた事もないし、聞いたこともないタイトル。
もちろん自分の努力不足、というか感覚の劣化もあるだろうと思うが、こういう商業的に結びつく数字がこういう状態ということは、それに比例して偶然耳にすることのできる音楽の傾向も、こういった色に染められている、ということである。
で、そんなタイミングで新宿のタワレコへ数年ぶりに行ったわけだ。
(渋谷店は何度か機会があったが、新宿はほんと久しぶりだった)
ええ、最初のフロアの変わりっぷりに思わず泣きましたよ。
フロア内容を大幅に変更した、というのはwebニュースで聞いていたので知っていたが、
ここまで媚びざるを得んか?
そして
こんな中途半端な媚びで客が戻ってくるとでも思ってるのか?
と。そう、新譜のほかはアイドル、アニメ、ビジュアル系―どれも強い固定層を持つジャンルばかりなのになにこのいかにもなとりあえずハケるモン揃えときましたー(オマエラこれがほしいんだろ、萌え豚?)的なお粗末さ。
それに伴い他のフロア―洋楽やJAZZ、worldミュージック系も移動していたが、ここも旧態然というか、このweb=検索万能時代なのに相変わらずの視認性の悪さに拍車かかっとるがな(泣)。
おまけに買ってなかった某アーティストの新譜を洋盤でロープライスタグついてたので買ってみたら
「お客様すいません、シール貼り間違えてまして・・・」
で1500円のはずが1690円。
買うには買ったが、価格がどうのという話じゃない―下手するとある種パッシブな詐欺商法よな。
しかしこういうご時勢ということも良くわかってるのか、店員さんの態度だけはクソ丁寧。
CDの売り上げ全盛期のあのふんぞり返った態度の悪さで有名だったタワレコもいまは昔だ。
努力はしているんだろうと思うし、その変わろうとする意志には敬意を表したい。
しかし確かNTT系列として買収されている、ということからもわかるように、もう経営としてはほとんど成り立ってないんだろう。
そういうことを抜きにしたら、もういつつぶれてもおかしくないんじゃないか―。
タワーレコードほどの知名度と規模をもつ店舗でもこれだもの。
そらもう”メディアを売って利益を上げる”という形での音楽産業は、もう終わりということだろう。
ほんとうは、一部の書店がそこに活路を見出しているように、リスナーの知らない”未知の音楽と出会える場所”として、タワーのような実店舗を持つ企業は戦うべきだった。
しかし、見たようにこれらの店舗からは、そういった姿は全く見えてこない。
昔のように音楽に飢えた若者たちが、むさぼるようにレコード棚を繰って、少しでも新しい音、まだ誰もが知らない刺激的な音を、争うように探している時代ではない。
なのにあいも変わらず視認性の悪い並べ方で、品揃えだけをしておけばよい的な店舗の作りはずーっと変わってないわけだ―”そういうものである”という概念から脱却できていない、ということだろう。
もちろん、こういったジリ貧に追い込まれている中で、新しい陳列の形や、それにともなう工夫された棚なんかをまとまって導入するのはある種の博打だろう。
けどだからといって、このままじゃどうやっても、amazonの楽さには勝てんぞ?
こうして”流行を消費するためのもの”以外の音楽を愛でる層は、地下に潜り、絶対数が減っていき、結果さらに巷に流れる音楽は”音楽”とは関係のない、嗜好品の従属物となる。
※自分が某巨大アイドルグループの商法に対して絶対に首肯できないのはこのためだ。
良し悪しではなく彼らはたぶん音楽そのものには愛情なんて欠片も持っていない。
産業自体の寿命だったとはいえ、そういう連中が握手券といって金を巻き上げるための隠れ蓑に利用した。
それが瀕死の状態の”音楽メディア”ビジネスにとどめを差した。
寿命だったのは否めない。
けど、昔自分を楽しませてくれたものが殺されたなら、殺した相手は仇としか言いようがあるまいよ?
で、そういったパラダイムシフトで、砂糖に群がるありのように、自己顕示欲の強い年代の女の子たちを共犯者に巻き込んで、断末魔のような商売をしているのが日本のアイドル産業だとしか自分には思えない。
一つだけ面白いのは、そういうパラダイムシフトをうまく利用してそういう”概念”を喰って大きくなろうとするしたたかなグループもいるという点だろうか―ももクロはこれだろう。
(彼女らはある意味アイドルの振りをしたアイドル外のものだろう―アイドルという概念がおいしく太るまでまって、その”概念”を”喰らう”ことでを彼女らは異質さを演出している―ということはその魔法が解けたときは素の実力に戻る―ということでもあるが)
なかには「それでもいいじゃん、歌ってるのがアイドルだからって売れるCDは売れてるんだし」という方もいるかもしれない。
うん、そこは否定しない。が―、
やっぱり自分のあって欲しいものは”音楽性”が主であるものなのね。
”音楽”が主語であってほしいのよ。
”アイドル”が主語でなく”音楽”が主語でね。
で、ここで最初に戻って、最近の自分のアンテナに引っかかってくるもの=ボカロが、音楽が”主”であるに相当するものである、なんて強弁するつもりはさらさら、ない。
ボカロも明らかに、そのキャラクター性が強く作用している側面を、否定はできない。
しかし―。
ミクさんに代表されるボカロというのは”虚”の存在だ、ということがある。
奇しくもある方が的確に仰ってたが”空っぽの器”なのだ。
そこになにを見、どういう音を聴き取るのか―そこには純粋にユーザーとリスナーの共犯関係の中でしか成立し得ないビジョンがある。
少なくともそこには―どんなに稚拙で、型に嵌った音楽性の低いものですら―ある種の小さな創造性(クリエイティビティ)が働いている。
その小さな創造性の集まりが、ボカロ周りのシーンでは、まだ健全に機能している。
(これはほんとうに発売元のクリプトンの地道な努力のおかげだと思う、ほんと頭を垂れざるを得ない)
だから何度も取り上げた『melody』の翼や『tell your world』最近の『odd&ends』のようにそういったユーザーの創造性の”カケラ”で出来上がる初音ミクというのは、そういったものを体現するための依り代だと、自分は感じている。
だから少なくとも自分は、そちらを信用する―それだけの話。
いつかあの”翼”が黒く濁るときも来るのかも知れないし、”翼”を描くまでの力を失うときもくるだろう。
けど多分そのときは、静かに、綺麗に、彼女たちは消えていくだろう。
(試される大地―道産子の伊藤さん家の子たちは特に:笑)
少なくとも握手券なんていうマネーロンダリングの道具になることはないと思う。
ということで、気軽に、カジュアルに、発売日にはどんな音が聴けるのかとワクワクしてお店へ駆けつけたCDの文化はもうたぶん戻ってこない。
あとは細々と、強い固定客を持つジャンルがそれこそ”アイテム”として維持していく、或いはどうしても全盛期のスタイルとしてのCDから次へと移行できない層のあるジャンルなどで、命脈を保つだけだろう。
実はこうなってくるとライブバンドが強くなってくるんだけどな―。
だからライブできるバンドって強いのよ、これからは特に。
時代は、自ずと変わる。
しかしその時代とある時間を共有した者としては、なんとも切ないことよ―。