自分メモ。
震災後の原発停止や、それに伴う代替エネルギーなんかの議論をみていて思ったこと。
まず、基本的に日本人は「議論」になれていないな、ということ。
それを最近つくづく感じる。
これはもちろん自身のことを含めているのだが。
まず、なぜそれを顕著に感じるかというと、多くの人が、議論をする前の「前提」を「共有」していないのに議論を始めてしまっていることがものすごく多い。
本来、建設的な「議論」をしたいのなら、共通の土台となる「前提」を、まずそろえなければいけない。
しかし実際は、なによりももまず、いまにも漏れんとばかりに、幼稚な持論の拙速な開陳に淫しているだけ。
「前提」の構築を怠っている、というか、おそらくそういうものが必要ということすらわかってないんじゃないか。
だから実は、一見それふうの多くのものは、自分の「感情」とか「結論」が先にあって、それをぶちまけたいがために「議論」の皮を被っている。
個人的にはそう見ている。
そしてそういうのは、往々にして言い切りを伴うのでそれらしく見えるし、説得力があるように見える。
けど、実はそれは「議論」にはなっていない。
もちろん、それが「議論」を目指していないのであれば、それでいい。
それ自体はなんら悪いことではないから。
「意見」とか「見識」をどんどん開陳するのはよいことだ。
ただ、基本的にそれは投げっぱのもの=発言者のオナニーであって、コミュニケーションではない。
逆に言うと、その恥じらい―コミュニケーション足りえていないことに対する自覚―さえ持っていれば、それでよいと思う。
しかし、開陳された他人のそれに、なんのブレーキも効かさずに、ぱくっと喰いつく人は意外に多い。
もちろん誰かのそれにインスパイアされて自分のそれを開陳するのはいっこうに構わないんだが、常日頃から一家言持っているならいざ知らず、そうでないのなら、大本の発言者に対する最低限の敬意ぐらいは持っていてほしいもの。
反対意見も、もちろんあっていいんだが、それの披露に自覚・無自覚問わず人格攻撃的な意趣を含んだ表現も意外なほど多い。
(実はそれをやってしまうと、「議論」の材料たる資格を、自ら捨てていることになるんだが、意外と皆それに気づいていない)
そして、一番最初に書いたように、得てしてそういう「噛み付き」は元となる発言と、前提となる事実認識や数字を同じにしていないことがほとんど。
これは逆接的に有識者にしても同じで、まず自説の引いた数値や根拠を金科玉条にして、相手の投げかけに対して最低限の斟酌もしてなさそうな人も多い。
(相手にする数が膨大なのでバカ正直にもやってられないのだろうが)
だからそれはあくまでも一方的な意見の「開陳」や、感情的な「噛み付き」であって、建設的な「議論」にはなり得ない。
どなたかをしてtwitterは床屋政談や井戸端会議といっていたのを見たことがあるが、いいえて妙。
どんなに建設的に見える会話でも、そこをそろえられる相手とでしか、実は「議論」にはなり得ていない。
なので、そういった「公的」なニュアンスの弱い、床屋政談や井戸端会議的なストリームであるという自覚があればそれでいいだろう。
くりかえしいうが、自覚とは=恥じらいである。
もうひとつ。
「決断」のこと。
基本的に「決断」というのは文字通り「決め付け」である。
日本の政治家は昨今、「調整」だけしてきて「決断」をほとんど置き去りにしてきたので、誤解している人も多いが、基本政治家とか経営者―要するに何がしかの責任を負う人たちの最大の役割とは「調整」ではなく「決断」をすることである。
それをわかってない人が意外と多い。
そして基本的に「調整」と「決断」は本質的に相反するものだ。
一部の不利益を考慮したうえで、多数の利益を取る。
あるいは、多数の不利益を考慮のうえで、将来の利益をとる。
どちらもみたせる条件がいつもあるなら「調整」だけですむ。
「決断」はいらない。
しかしそんなことはありえない。
だから「決断」がいる。
当然、決断で不利益をこうむる人は必ず出る―あたりまえのことだ。
それを看過しろというつもりはないが、これが原則であるということを忘れてナイーブな反応をする人が多すぎる。
そして基本的に「決断」するためには、「ビジョン」がいる。
そう―どういう世界を描きたいのか・どういう結果を得たいのか―それを描く力だ。
日本人はこの「得たい世界」や「得たい結果」というものに対する絵をかけない人が多すぎる。
これは「空気を読む」ことが正義とされる社会の弊害だろう。
個人の「望み」を抑圧することが、無言の社会規範のなかに組み込まれてしまっている。
いい意味で「欲」を持った人―ここでいうなら「ビジョナリスト」がいない・出にくい世の中なのだ。
なぜなら、こういった「ビジョン」を具現化するためには「決断」が必須だ。
そして前述のように決断には、ある特定層の「切捨て」を、本質的に伴う。
皆の言うことが適えられることが、すべての正義だと勘違いしている人の多い今の世の中では、当然たたかれるだろう。
しかし「調整」によって平均化された「決断」に意味などない。
それは「決断」ではない。
こういった基本的なことさえわかっていない人が多いので、今の日本の世の中は「船頭多くして舟山登る」状態なわけだ。
そして「おれも」「おれも」と口出ししたがる人間はごまんといる。
”思ったなら、まず自分がやる”
”自分がすぐできないなら、いまできている人への最低限の敬意はもつ”
”そのうえで発言したいなら、礼儀をわきまえて発言する”
この程度は最低限のルールかと思う。
これがないのは議論じゃなくて、私的な感情の吐露に過ぎない。
それをして、議論とかなにか建設的なことをしている、と思われても正直困る。
あ、ちなみにこの一文は「吐露」ですよ。
議論にするつもりはない。
自分が「こう思っている」なら、まず、自分がそれを自分の日々の中でただ「実践」すればいい。
他人をどうこうしようなんて思わなくていい。
しかし他人のやることが自分に絡んでくる時はどうするんだ?
そういう人もいるだろう。
簡単なことだ。
それは”他人のこと”ではなくて、もうすでに”自分のこと”なんだよ。
だから”自分のこと”として、それを淡々とやればいい。
そこにあるのは、要は「善・悪」ではなく「美・醜」―ただそれだけ。
善悪で図るのではなく、”自分のこと”の立ち居振る舞いを、美醜で図る。
そういうことでしょ?
だからほんとうは「議論」しなければいけない局面なんて、実はものすごく少ない。
人それぞれのもつ「価値」の源泉は、その人その人の”覚悟を持った”決め付けの中にしか存在し得ない。
そんなものに本来「すり合わせ」なんてそぐわない。
もし、共に歩む人たちとそれをすり合わせたいのなら、それは”それなりの覚悟”を持ってしかできないはずだ。
そしてそんなもんが、自分の人生の上にそうゴロゴロ転がられてても困るよね?(苦笑)
だから淡々と”人は人””我は我”で本来いいんだよ。
(ただしこれに淫してしまっても、人生何も生まれてこない)
そして”自分のこと”として含まれる人たちとは、互いに尊敬と覚悟を持って「議論」をしていけばいい。
うざがられても、”自分はこう思うんだけど、あなたはどう思う?”と真摯に問い掛ければいい。
たぶん、それ以外の「議論」のほとんど多くは、実は自分たちの人生にとって無意味なものだ。
そういう気持ちを”吐露”してみました。