さて少し感覚を日常に少しでも戻すべく・・・というか規定枚数/月のサービスで借りてたので、そろそろ返さんと・・・ということで追われるようにして観たんだが、意外とタイムリーだった。
メメント
長い記憶を維持できない男が、妻を殺した犯人を追い詰めていく、という有名な一作。
当時ロードショウでもリアルタイムでちゃんと観ていた。
しかし、ご存知と思うがこの作品、映画館でかかるのは時系列をさかのぼるようにしてたどっていくエディット。
その逆はDVDでしか観られないのでそれ目当てで観たんだが
こんな救いのない映画だったとは思わなかった。
それぐらい人というのは自分の記憶を都合の良いように改竄する。
それがつらい記憶であればあるほど余計だ。
(これは心理学の臨床サンプル的にも確か立証されていたはず)
それを避けるためには、そのつらい事実を直視しなければいけないわけだが、人間の心には心が壊れてしまわないためのリミッタが存在しているようで、自分の耐えられない心の負荷になる記憶は消して(改竄して)しまう。
そういったメカニズムをそういう追い詰められた心境の側からの物語として描いたのがこの物語だったんだな。
おそらくこの震災のあとにも、当時のことを覚えていなかったり、別の記憶にすり替えたりする子供たちも出てくるだろう。
(いや大人ですらそうかもしれない)
けどそれは誰にも責められないし、責めるべき類のものでもない。
人はきっと「事実」に沿ってではなく「物語」に沿ってその人生を歩んでいるんだろう。
そしてその「物語」から大きくかけ離れた「現実」に直面するとそれを処理しきれなくなる。
結果、意味の上だけでもその整合性を維持しようとして記憶を「消す」。
それをどうして責めることができるだろう。
しかし、あまりにも大きく「事実」と異なる「物語」は、結果、やはりそのひとの幸せを奪ってしまう。
この映画がまさにそれだ。善意の人が極悪人に見え、悪女が聖女にその相貌を変える。
(キャリー・アン・モスの演技がホント素晴らしい)
むづかしい。そこがほんとにむづかしい。
自身も気をつけよう。
記憶は都合の良いように改竄されやすいものだと。
主観の「物語」にあわせて改変されやすいものだと。
他人のそれを責める気はさらさらない。
自分のそれを気をつけよう。
なぜならそれは自分にとって、決して幸せをもたらすものでないだろうから。
いや、ある意味すごく重い映画だった・・・。