「運」のようなもの

標準

まだまだ余震含め予断を許さない状況ですが、皆様周りの方含めご無事でしょうか。

被害に直接あわれた方、身近な方が影響を受けた方などもいらっしゃるかと思いますが
かける言葉がみつかりません。自分には不幸な状況の中でただただ幸運があるようお祈りすることしかできません。
どうか最大限の幸運がそれぞれの人たちに味方してくれますように。

そして「運」というのはある種の「選択」がもたらすと常日頃考えていたのですが、これだけ大きな物事の流れの中ではそれも押し流されてしまいます。

人間とはちっぽけなもんだなあ、と。
その上でやはり思い上がってた面もたくさんあったんだなと我が身のこととしてひしひしと感じます。

「人間のすきな”自然”て所詮人のつくった”人工の自然”にすぎない」

的なことをいった作家が昔いたようですが、ほんとそのとおり。
自然てそんな甘いもんじゃないんですよね、本来は。
(地震・津波に言うは及ばず実は原発のことも突き詰めれば”原子”という自然の力です)

ただそれでも人間はその”本来の自然”の中で生きていかなければいけないし
抗い共生し選択しながら生きていかざるを得ない。

願わくばそこにより自然の摂理にかなった選択を取れる謙虚さが人に残されていることを祈るばかりです。

で、そんなこんなを思いつつも我が身のことを考えると、自分の「運」てなんなんだろうな、と。

自分は元々関西の人間ですが、阪神のときはもうこちらに出てきていましたし、
同年の某団体のテロのときは仕事がなかったこともあって直接「我が身」のことでもありませんでした。

そして今回。

人づてに話を聞くと、前にいた職場はその職種からしていま焼ききれんばかりのフル稼働だと。
そんなときに力になれないという一種の罪悪感とともに、これはなんなんだろう、と思わざるを得ません。
本来なら自分も”そこ”にいた可能性はあったのに。

まるで「まだお前の番じゃない」と毎回意図的にはずされてるような感じ。

これがいいのか悪いのか自分にはわかりません。
けどいまのところ自分はそういう「星回り」のようです。

天が自分にどういう役を配しているのかわかりませんが、とりあえず自分は自分にできることをやるしかない、ということなんでしょうね。

複雑な気分ではあります。
どうか自分の”そのとき”が来たときに、見誤らず、自分のなすべきことをなせますように。

皆さんと皆さんの大事な人たちに、ありとあらゆる幸運が味方してくれますよう―。

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