”便利さ”の土砂降りが流してしまったもの

標準

夕方、駅前にいこうと家を出たとたん、降られましたよ、ということで一つ―。



日が暮れて、腹の音がく~となる。

夕飯どうするか、飯は昨日炊いたのが土鍋に茶碗一膳ぶん。

冷蔵庫を見る―見事にからっぽ(笑)。
(ここのとこ一人自炊は結局高くつくんでね?と思いコンビニメシだったからなあ)

財布を見る―見事にからっぽ(泣)。

うぬ、そろそろ家賃の支払いもあるし、駅前まで金を下ろしに行くか―。
と、外に出ると降るか降らないかの天気。

手をかざして「いけるか?」と思い、えいや!と外へ出て十数歩も行かぬうちに降り始めましたよ?
(・・・・・)

おまけに信号待ちしている間に、雨脚はどんどん強くなるばかり。

国道の陸橋を渡り、さすがにこらいかんわ!?とおもい、近くのマンションのエントランスらしきところで雨宿り。

iPhoneの雨ッシュでみると、短いが濃い雨雲がちょうど直撃している最中の模様。
しかし、少し待てば雨雲は抜けそうだったので、しばし雨宿り。

しばらく待つと、雨脚はやや弱まったものの、一向に雨はやみそうもない。

駅まではあと通り一筋なので、思い切って雨の中へ―。

ATMコーナーへたどりつき、メガネをふきふき。
これで冷房バリバリに入ってたらやだな、と思うが幸いそんなことはなく。

無事家賃と少々を下ろすも、雨はまだ降り止まず。

仕方がなく駅の本屋で時間を潰すべく、また雨の中へ。
ビニール傘をケチらずに買えばよさそうなもんだが、降り方からみて、どう考えても通り雨。
無駄な出費はすまい。

しかしたどり着いた本屋は、なにか目新しい新刊もなく、オマケに冷房がやや厳しい。

仕方なくそそくさと退散し、駅の改札出口で雨宿り。

ホームから出てくる人たちも、傘を持っていない人がけっこう居る。
それぞれ、おもいおもいに雨脚が絶えるのを待つ。

近くの売店では、臨時にビニール傘を出しているようだ。
急いでいる人たちは、それを求め、バサッという音と共に散り散り駆け出していく。

雨脚は弱まったり、強まったり。

そんな中で、雨宿りの女の子に傘を持ってきたらしい、彼氏の姿。

女の子は、渡された傘を手に、二人仲良く雨の中へ。


久しぶりにこんな光景を見た―。




そうだよな。


コンビニのビニール傘、たった500円。
確かに便利。続けざまでなければ、痛いというほどの額でもない。
風に持っていかれなければ、けっこう保つし。

いつのころからか、道行く人の差す多くのそれは、透明なコンビニの、便利な500円の傘に変わった。

けれどその便利さと引き換えに、多くの人たちは、急な雨に傘を持ってきてくれる誰かを失ったんだな。


昨今、便利やさ経済効率が声高に叫ばれるが、実はそれらが=豊かさなのではない。

不便であることが豊かでもある、ということを、自分たちはあまりにもないがしろにしてきたんじゃないか。

繰り返していうが、不便さというのは=貧しさではない。

不便さのなかに、往々にして豊かさというものは、潜んでいる。

しかし”効率”という題目を唱えた、便利さの土砂降りの前に、豊かさを孕むための不便という土壌は流されてしまった。


繰り返していう。


不便さ=貧しさではない。


逆に言うと、貧しさ=不便さでもない。




皆そこをはきちがえてやしないだろうか―?





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