葬儀の日・・・といえば松浦理英子のデビュー作にして大傑作だが、そうではなくて前エントリより続きです。
父の葬儀の日のことについて。
通夜の夜を終えて、朝。
葬儀社のほうからセットで市販の菓子パン的なものが出されていたし、出前や仕出しの残りがあるので、それを朝食代わりに食べる。
ただ、朝食は朝食でいちおうちゃんとしたものが親族分出るように頼んではあったので、あとでもう一度つまむことにはなった。
(このときは早朝だった+食欲があったのでぱくついた、と)
熱いお茶を何杯も。というか、お茶を飲む習慣がある場所に帰るとなにかとお茶だなあ。
しゃっきりする。
お茶を飲みながら徹夜の姉と、泊りがけで来てくださっていた元・父の仕事場のスタッフだった方と雑談。
しばらく雑談後、ここでも前日と同じように、朝方まで起きていた姉と交代するような形に。
姉はここでいったん沈没した(笑)。
風呂が使えるようになっているので、朝風呂になるがさっぱりさせてもらう。
昨日入ってなかったからここで身を清めとかんと。ゆったりとした大き目のお風呂。ちょっとゆっくりさせてもらう。
そうこうしているとお義兄さんや甥っ子1号、同じく泊り込みしてくださったスタッフの方なども起きてくる。
8時を回り、朝食も用意できていると係りの方も声を掛けにきてくれる。
さっき食べたこともあり、皆さんや自分より少しあとに起きていた母に先にいってもらう。
(姉は甥っ子2号と一緒に沈没のまま)
告別式は11時30分からなので、少し余裕がある・・・と思っていたのだが、半分正解、半分間違い。
このとき自分は食事を知らせに来た係りの方と、ご焼香のお礼の品のでた数の確認やら。
続いて司会の方と告別式の進行や焼香順などの再確認。
お花の追加なども来ていたので、その飾り方をどうするかなども相談。
さらに告別式の伴奏をしてくださる方とも詰めの打ち合わせ。(生演奏なんですな)
生前父の好きだった曲・・・ということだが、若い頃はけっこう趣味のいい―というか自分の音楽好きは間違いなく父の影響もあると思う―のを聴いていた、と思ってたーんーだーがー。
亡くなって、病院から家に帰ってくるときあわてて部屋掃除してたとき出てきたのは”ちあきなおみ”とか演歌ばっかりだったよ。
とうちゃん、いつのまに趣味変わったんや・・・orz
母や姉の話も総合し、ジャズや夏川りみとかにしてもらう。
(そういうのも聴いていたのだが、比率として晩年になって演歌的なものがより増えたっちゅうことなんだろうな)
そうこうしているうちに10時近く。開放されてあわててごはんを食べに行く。
和食。煮物が程よいお味で美味し。
そうこうしているうちに、親族の皆さんはじめ、早いお客様がぽつぽつきてくださる。
そうだ、10時半からは親族で写真撮影だよ!?
余裕あるようで余裕ないよ。
で、写真撮影。
父は一人っ子だったので、母方のほうが多い、ということもあったが、生前すごくお世話になっていたこともあって、例の近所で親しくして頂いているおばちゃんと、父を手伝ってくれていた級友のお姉さんにも入ってもらう。
(この人はある意味自分にとっても義理のお姉さんみたいなもんだし―姉と二人がそろっているときに「技の(姉)一号、力の(姉)二号」と茶化していたのは秘密w)
遺影を抱いてぱちり。
(あとで見たらいい写真に取れていた)
それを終えた頃にはどんどんお客様増えてくる。
(最終的には―平日昼間、基本親族葬というのに昨夜の七掛けくらいの方が来てくださっていた、ありがたし)
こちらもそれを横目に、まだ細かい部分の打ち合わせ・摺り合せ。
あ、そうだ、宿泊に使った部屋もこのタイミングで空けなければいけない。
荷物まとめなきゃ、荷物。
そうこうしているうちにお寺様も到着。
一家でご挨拶する。
そして時刻。
音楽が流れ始める。
事前の段階で「写真があればお願いします」といわれていて、提出しておいた写真でスライドショーのようなものが流れる。
生伴奏で夏川りみ「涙そうそう」会場からすすり声。姉曰くお義兄さんもスイッチ直撃だった模様。
(ある意味選曲正解かw)
けど喪主さん(自分)はそんなことより喪主挨拶とちらんようにで頭一杯。
泣いてなんぞいる余裕なし。
この告別式でも大まかなところは、通夜の時と同じ進行。
読経・焼香・親族として祭壇前で御礼。
黙々と御焼香が続く―が、やはり昨日と少し違うのは、泣いてくださる方の度合いの違い。
”ああ、そうなんだなあ―”
そのときはそうとしか感じられなかったが、これも父に思い入れを持っていてくださって、日ごろの付き合いの時間の寡多によって「これでお別れ」感が違ってくるからなんだろう。
けど父の年齢からすれば、とても若い方がたくさん来て下さったのは、やはりここまでの父の生き方の現われだろう。
人の世話をするのが好きで、人に囲まれているのが好きだった父らしい。
これまで、家庭の中での父は―家族としてみると疑問に思ったり、なんでそうなんねん?ということは当然あった。
仲の良し悪しではなく、普通、家族ならでは持つであろう葛藤というのも当然あった。
愛情をもった上で、そういった姿や思い出が家族としては、脳裏によぎりもする。
だが、こういうときにはじめて”外”―公の場での父の姿をおぼろげながらに知るのだ。
(これは祖母の死のときにもそう思った)
正直、享年は少し早かった。
もうちょっと生きて、人生を楽しんでほしかった。
”しかし、これはこれで悪くないラストだったんじゃない、お父さん?”
最後のほうは、さほど苦しくなかったみたいだし、病院で管だらけなんかにはならず、ぎりぎりまでほぼ自分のやりたいように過ごせた。
そう胸の中で呟いてみる。
そういう気分の中で、喪主挨拶。
生前、勉強熱心で旅行好きだった父ですので、皆様が悼んでくださるなら、皆様を通じて今後も色々な景色を見せてやってください―そうご挨拶する。
これで一応式は終了。
火葬場では顔が見れない、とのことなのでここでお別れ。
皆さんにお棺の中に花を収めていただく。
皆さんそれぞれに最後のお別れの言葉を掛けながら、花を添えてくださる。
このときはじめて、ああ最後なんだなあと思い、悲しいのではなく、自分が生前父が本当に心から喜ぶようなことをしてやれなかったなあ―そのことに悔しくて涙がこぼれる。
そして母の留め花で、お別れ。
自分は”おとうさん、じゃ、またね”と声を掛けた。
自分が位牌を持ち、甥っ子2号に姉に付き添ってもらい遺影を持ってもらう。
葬儀社の方の手で棺をエレベータで1階まで(式場は2階)。
1階のエントランスで男衆で棺を車に乗せる。自分も担ぐ。
(ここでようやく担いであげることができたなあ・・・)
自分は助手席に乗り、位牌を持って。
出発の合図でホーンがなる。
父と自分の乗った車が先に出、あとからマイクロバスが続く。
信号待ちの交差点の茂みから、雀の群れが飛ぶ。
このときへんに感心したのが、ここの葬儀社の方は我が家のメインの担当と思われる方が車の運転までされていたということ。
自分より少し若い方だと思うが、ほんと何でもこなされてたのは驚きだった。
(ある意味心身ともに激務な仕事だと思う)
うちの街は、火葬場は山の上にある。
あいにくの曇天。
空に帰る日にしては、すこし雲が分厚かった。
さすがに”雲ひとつないような 抜けるほど晴天の今日は”とはいかなんだか(苦笑)。
ちょっと残念。
火葬場は、なにかエレベーターホールのようだった。
そのうちの一つに父の棺を納める。
お寺様の読経の中でスイッチが押される。
扉が、閉まる。
ほんとうにエレベーターのようだ。
ちゃんといいところへ登って行ってくれればいいが。
ここでは、長居をせずに、すぐに式場へ戻る。
ヘンな話だが、ここで気ぜわしい現代では、精進揚げと称して昼食をとるのだ。
帰りは自分もマイクロバスで。
この前後で、遠くから来てくださった方々や、お時間の都合がある人の幾人かが帰られる。
ここまで付き合っていただき、ほんとありがたかった。
なんかこのあたりは、勢いで進行している。
なので、意外に食事もいわれたままに平気でぱくついてた。
生きている、というのは現金なモンだ。
そして昼食を済まして、予定されていた時間が来ると、またバスに乗って父を迎えにいく。
喪主である、自分がまず一人で迎えにいく。
火葬場の係りの方と歩きながら雑談。
お幾つでした?七十一です、そうですか少し早かったですね、ええ―
「ご自身で出してあげられますか」
そういわれてボタンを押す。
お骨が出てくる。輻射熱であったかい。
その後、お骨を皆の前までつれて行き、お骨上げ。
やはり病巣だった部分のお骨の痛みが激しい。
「おつらかったんじゃないかな、と思います」
と火葬場の方。お骨を拾うお箸は一対がちぐはぐのものを使うんだな。
自分が最初にお骨を拾い、続いて皆さんに拾ってもらう。
骨壷に入り、お骨上げ終了。
また式場へ戻る。マイクロバスでもどる。
窓の外の空は薄曇。ひざの上に抱いている、父の遺骨はほんのり温かい。
ここでも、ここまで付き合ってくださった方の一部が帰られる。
結果、いい具合に残っているのは、ほぼ親族だけ。
ここで初七日のお経も上げていただく。
読経を終えて、導師さま(お寺さん)のお話。
父とも面識があったので、非常に砕いた話で皆にわかりやすく話をしてくださる。
「寂しいですね、自分もお歳が近かったから、すごく寂しいです」
そういっていただける方にお経を上げてもらえるというのは、ありがたいことだと思う。
これで一通りの流れが終了。
ほんと勢いで進めないと、これはここまで進まないわ。
良くも悪くも、悲しんでいる暇もない。それでいいのだとも思った。
ただ、ここでも後始末、というかご会葬のお礼の品の残りをどうするとか、帰る人にタクシー呼んだり。
で、そんな細々としたことをかたづけ、ようやく帰宅。
「はい、おとうさんお帰ったで」
ということで、父はお骨になって家に戻ってきたのだった―。
このあと、前後して葬儀社の方が来てくださり、四十九日までの祭壇を用意してくださり、そこに父のお骨を置く。
そのほか、埋葬許可証(お骨収めに要る)を渡され、再発行とかないので絶対無くさないでくださいといわれ、葬儀代の明細をもらい、支払いの期日を聞き・・・。
とまあちょこちょこと事後処理の話があり。
この葬儀社の方が帰られて、ほんとにようやく一服、という感じだった。
ここまで長々と書いてきたのは、自身の記録の意味で、というのももちろんあったが、意外とこういうものの流れ、というのは経験してみないとわからないことが多い。
なので、当ブログを読んでくださっている、酔狂な皆様にも何かしら役に立つところもあるだろう、そう思って書きました。
人によっては露悪趣味と取られるかもしれないが、まあいいでしょう。
およその流れは書きましたが、かけてないところも当然多々あるわけで。
ま、人が一人いなくなる、ということには膨大な手間がかかる。
その手間の多さによって、逆接的に、その人がいた、ということの大きさも知ることになるわけですが。
ですが正直、まだあまり実感がありません。
ま、これからいろいろ感じることもあるんでしょうね。
このあと月末ちかくに四十九日。
で、おもしろいんですが、その四十九日が父の誕生日にあたります。
さらに調べてみると、正月三ヶ日あたりで閻魔様にお目見えする日にちらしい。
父も気分一新で新年を迎える、ということでしょう。
自分もがんばらねば―。
とうちゃん、ここまでありがとう。