父の死(後編)

標準

つづきです。




前編より続き)

翌日見舞うと、明らかに苦しそう。
結果、このあたりから食事と水分が取りずらくなってくる。
(昨日の段階では介助は必要だが、噛んだり飲み込んだりは自力でできていた)

このあたり今にして考えると、こういう施設で家族がびったりついていたのが仇となったのか
「家族がいてるから」
ということで病院側の食事量・水分摂取の管理が甘くなっていたのではないか。
(そうではないと思いたいが、明らかに看護士のモニタリングに来る頻度は少なかった―まあそういうレベルで済む患者さんをメインに受け入れる病院をこちら側で選んでしまったからともいえる)

昨日と違い、明らかに状態が悪化している様子。
ただ食事、少なくとも水分は取らないとまずいので、アイソトニック系の飲料を大量に買ってきて飲ませるが、やはり徐々に自分で飲みづらくなってくる。

その日は暑かった事もあってか、かなり発汗もしていたので脱水も心配。

なので点滴を入れてもらうが、こういう状態なので最初入れていた脚のほうの血管がかなり細い。
でははずれる・漏れるで何度か入れなおす羽目に。

結局らちが明かないので、寝返りを打つので邪魔になる=はずれやすい可能性はあるが、腕に位置を変えてもらい、その晩は自分が泊まり込むことにした。

また前述のモニタリング頻度の事などもあり、家族全員「こりゃ転院した方がいいか」ということで、紹介状を出してもらっての転院を打診する。

で、その病院の先生の方は出来た方で、快く承諾して下さったのだが―

提携病院のことごとくが転院拒否!拒否!拒否!

正直びっくり。

で、けっきょくこの日もほぼ一睡もせずに介護。
あ、けど某16時間休憩なし勤務の職場よりよっぽどつらくなかったですヨ。
(気が張ってたからからだな)

明けて、土曜日。
転院の話は進まず。本人の状態は悪化の一方。

姉一家も再度合流し、先生のほうを(申し訳なくはあるが)つつきつつ、他に方法がないかを全員で必死に検討。

結局、正規のルート(病院同士の紹介状)で転院無理なら、一旦帰宅の形とって再度救急で近くの病院にお願いするか、という事になる。

で、その方向で無理無理に進めさせてもらい、午後になって退院・帰宅、という形をとり、再度救急車を呼ぶ事になったのだが―。

救急車は早かった。それこそ5分で来てくれた。

しかし転送先がこれまた、拒否!拒否!拒否!

いやー話には聞いていたが、まさか自分の親が救急車の中で何十分も受け入れ先を待つなんちゅう事を経験するとは、微塵も思ってなかった。

自分と姉が父に付き添って救急車の中にいたが、あとを車で付いてきてくれたお義兄さんにきくと30分近く止まっていたらしい・・・。

転院拒否の理由は「カルテがないから」。

また最寄りの既往歴のある病院の拒否理由は「泌尿器科がないから」。
(父の患っているのが前立腺がんなので―父は形成外科でかかっていた)

しかしなんとか粘って、既往歴のある最寄りの病院へ転送してもらうことに成功する。

そしてこれもうかつな話だが、この病院でようやく父の現状がどういう状況なのか、というのを家族が説明を受けることになる。
(これは健康な時は父が病状に関しては、すべて自分で把握していたため)

もちろん、おおよその事は自分たちも知っていたのだが、直接、(父からではなく)専門家である医師からの説明を受けたのはここが初めてだった。

聞いてはいたが、肺にかなり転移をしている、とレントゲンを見せてもらいながら話を聞けた。
末期がんの状態だと思います。なので急変もありえますよ―そういった話を含めて納得のいく説明をようやく直接効く事が出来た。
(最初の救急搬送の時や、入院した先の病院ではそういった確認も説明もなかった―後者は設備面から検査できなかったからもあるが)

ここで、ようやく普通の「入院」。

正直こちらもほっとしたし、父自体も明らかにずっと楽そうだった。

ただ、ここでの入院も、泌尿器科がないということが改めて説明されて「いざという時の処置は出来かねますよ」といわれているのを承知の上、かつとりあえず「この週末だけでも」という形で無理無理にお願いしての入院だった。

なので、母とは「ないとは思うけど」といいつつ、継続入院不可だった場合のことも考えんとな・・・と一抹の不安を抱いたままの入院だった。

それでも、常時看護士さんが巡回してくれている+モニタリングがきっちりしている―そして明らかに本人が楽そうだったのが、家族側としてはほっとした。

そして明けて日曜日。

姉の一家も昨日から泊まりがけで来てくれているので、甥(父にとっては孫)や母、姉、自分、義兄。
父の昔のお弟子さんや、何人かが見舞いに来てくれた。

状態が楽な事もあってか、結構父も普通にしゃべって応対していた。
(ただし酸素マスクは着けたまま)

で、話を聞くとやはり昨日一日ほとんど記憶が飛んでる。
(それぐらいしんどかったようだ)

そしてしきりに「携帯電話を持ってきてほしい」と繰り返す。
不安だ、という事だと思うが―もちろん病院内は基本的に携帯ご法度。

以前ほどは厳しくないとはいえ、やはりよろしくない。

そのことを何度言っても聞かないので、仕方がなく電源を切った状態で渡す。
で、悲しいかな、電源を自身で入れようとするんだが、ちゃんと握る・ボタンを押すだけの握力がない。

その状態でも、置いといてほしい、今かけてみるから、と繰り返すわけで。
看護士さんに言えば、家が近いからすぐくるよ、といっても繰り返すわけで。(哀)

で、けっきょく自分が面会時間30分ほど越えて、ぎりぎりまで付き合ったが、当然かけられず。

かわいそうに思ったが、落としたり、他の迷惑になってもいけないのでベッドの横の袖机の中に入れた。
名前を何度か呼ばれるが、きりがないので、その声を振り切るようにして帰宅。

ああ、しかし思えばそれが最後に聞いた肉声になってしまうとは・・・。
(正直仕方がないとはいえ、罪悪感だなあ・・・。)

その夜、姉一家は明日から平日なので帰宅。
夜半近く、母と二人で「この週末だけでも」という形で入院させてもらったから、下手したらまた週明けから入院先探しやなあ・・・と相談するとでもなく相談。

ただ基本的に能天気な親子なので、きっとだいじょうぶ、もしだめなら「最悪は二人で面倒見るか」という結論に達し、零時前ぐらいに就寝。

けどなんとなく寝つきが悪かった。

すると、しばらくしてふすま越しの母の部屋から電話の音。

鳴った途端に寝巻脱いで着替えてました。
病院からの連絡。状況急変なのですぐ来て下さい、とのこと。

身支度して病院まで。
ほんとに歩いてすぐの所なので、10分ほどで着いた。

病室につく。看護士さんに話を聞く。
電話を入れてもらった時点で、すでに心停止だったそうだ。

ただ顔は全然ふつうに寝ているような顔。

(苦しまなかったんだな)

それだけが、ほんと救いだった。
その後、当直の医師の方に確認してもらい、死去を確認

享年七十一歳。

がんばった。
けどちょっとはやかったよ、とーちゃん・・・。

看護士さんにきいた最後のことばは、消灯時間に「消灯なので電気消しますね、おやすみなさい」に対し

「はい、おやすみなさい」

だったそうだ。

とうちゃん、むかしから外のひとにはちゃんとカッコつけていい返事するんだよなあ。
最後の言葉までらしすぎるわい(泣笑)。


(気力があれば、通夜・葬儀編につづく・・・かも)