父の死(前編)

標準

前エントリにも書きましたが、先月父が亡くなりました。

結果的に自然と収まるべきところへ収まったのかな、と納得はしているものの、正直疑問に思わざるを得ない事にも多々遭遇しました。

ということで、そういった事柄の記録の意味も兼ねて、その前後の事を少し書いておきたいと思います。

これから介護やこういったことに遭遇するであろう皆さんが、その時に少しでもよい判断をできるための助けになればこれ幸い。





父はもともと数年前からガン(前立腺ガン)と診断されていた。
しかし部位的に緊急性の高いガンではなかったことと、本人の意思で手術は行わず、食事療法などで自然治癒・寛解を目指していた。

事実今年でガンと分かってから9年目で、その割には比較的自由に振舞えており、クオリティオブライフ(QOL)の点からは、ある程度成功していたと言ってよかったかと思う。

旅行を楽しみにしていて、けっこう旅行そのものとしてや、治療の名目であちらこちらへと自力で行っていた。

ただやはり病気の性格上、転移は徐々に出ていて、骨と肺にはある程度の転移が見つかってはいた。
加えてそのガンの前に、狭心症もやっており、ステントも入っていた。

そこにこの夏の酷暑が祟ったのか。

最初はぎっくり腰になった―ということだが、おそらく今にして思えば、骨への転移がそういう症状に似て現れた(というか本人がそう思おうとしていた)のか、まったく立てない訳ではないが、寝ている事が多くなった。

ただこの夏に、盆を兼ねて帰省した時は、しんどそうで寝込みがちではあったが、自分で立って、普通に生活も出来ていた

事態が大きく動いたのが、尿道閉塞をおこしてしまったこと。

これを聞いたのがこの10月末になってから。
病巣の部位から想像できる話であったし、事実排尿にやや問題があるという事は本人から自分も聞いていた。

ただしこの時点で連絡をもらった時は、かなり深刻な状態のようでほぼ自力での排尿できず、このままでは尿毒症になりかねない。
(事実、若干せん妄のような状態も出はじめていた模様)

「ちょっと帰ってきてもらった方がいいかもしれない」

母にそう聞いて、急遽始発前後の新幹線にのって帰省。

すると自宅へ着くなり、救急車が口をあけて待っていた、と。
まさか人生初救急車がこんなシチュエーションになるとは・・・。

この時点で父は意識ははっきりあったが、このままでは尿毒症になりかねないという事で、緊急で膀胱穿刺か尿道カテーテルの処置をしてもらう必要があった。

で、混乱はここから始まる。

まず、市内の大規模な私立病院に運び込まれたが、土日ということで膀胱穿刺もカテーテルも入れられる医師がいない、といわれた。

しかもその判断を下すまでに2時間前後(!)もかかった。

で、さんざん待たされた挙句、近くの公立病院へ処置のため搬送されたが、ここでも搬送のための救急車の手配に小一時間待たされ、挙句の果てに、カテーテルは入れてもらったが、前に運び込まれた私立病院との連携が全く取れておらずこんな状態なのに

「処置終わったので帰ってもらっていいですよ」

は!?

入院かと思っていたこちらは、まさに寝耳に水、正直びっくり。
(この時点で父は自力でまったく歩ける状態ではなかったのにである)

しかし、素人の悲しさか、医療機関側にそう言われてなにかなすすべがあるわけでもなく、結局知人のお世話になり車で連れて帰る事になった。
(ただそれぞれの病院側の名誉のために言っておくと、それぞれ誠実な対応をして下さったスタッフの皆さんが大半であった事は記しておく)

この時点で母、姉、自分と家族全員はそろっていたが、姉はすでに所帯持ちで子供もいるので戻らなければならず、母と自分でとりあえず介護することとなった。

ただ父自身がこういう状態になる前に、自分でここなら入院してもいいか、という診療院は見つけていたとのことで、週明けそこにとりあえず連絡してみようという事になった。

結果、ここで自分は数日自宅での介護を経験したことになるのだが―

正直これが大変。

これをまともにやっていたら、まず介護する側から倒れていくだろう、ということは実感としてわかった。
(とにかくベッドなども、介護用の専用のものかそうでないかで負担がこんなにかかるとは思わなかった)

そしてそういった介護用のベッドがあるわけでもないので、初日、夜中しんどいのか、自分で体を十分に動かせないのか、父がベッドから落ちているのを母が気付き、二人でベッドに引き上げるなどをした。

この状態でこれでは、こちらがもたん、ということで翌朝、さっそくその診療所へ電話を入れ、入院を打診。受け入れは可能、とのことだったが数日待ってもらう必要があるとの返答。

とにかくその言葉を頼りに、前夜からの様子から察して、自分が一応寝ずでその日は父につくことにした。
(やはり自分で寝返りがうまくうてず、姿勢次第では苦しがるのでずっと自分が補助して姿勢を変えさせた)

結局それが二晩つづき、週半ばで目的の診療所へ入院。
しかしここでも誤算。

どう考えても、そういう(場合によっては末期医療が必要となり得る)状態に対処するような入院設備ではなく、特養ホームのような設備にその延長での入院施設が付いているようなところだった。

ここで教訓。

本人の意思をあまり尊重しすぎてもいけない。

なぜなら本人が健康な時に、自身で想定している状態と、本人が自己判断できなくなってからの状態は、ほぼ100パーセント異なるからだ。

そしてその齟齬に振り回されるのは、看護する側となる。

ただ、ここから自宅では着けれなかった酸素マスクなどを使ってもらえるようになった事もあり、少し状態が持ち直したかのように見えた。(事実だいぶ楽そうではあった)

とりあえず介護するこちら側としては、ようやくすこし体を休める事ができた。
(正直ここまでほぼ丸四日近く緊張しっぱなしだった)

入院一夜を過ぎた翌朝、さっそく病院に行くとは比較的調子がよさそうだった。
が、相部屋の方が痴呆とのことで夜中に奇声を発するとのことで、無理を言って別の部屋に移してもらった。
またこの日は祝日だった事もあって、多くの方がお見舞いに来てくれた。
それに対し、本人も(意識ずっとはっきりしていたので)しんどいなりにある程度受け答えもしていた。

この時点で―若干落ち着いてくれたかな―正直そう思った。なので逆に

「あーこりゃ長期戦になるかもな」

と覚悟はした。ほんとうにそれぐらい調子がよさそうに見えたのだ。
ところが翌朝あたりから徐々に―というかある意味急速に―状況が悪化していく。

(後編につづく)