孫正義=アントニオ猪木・・・なのか?

標準

ほろほろと考えていて、ちょっと思いついたのでメモ程度に。

最近はそうでもなくなってきたが、ネットなどでの孫氏への一部知識人の喰いつきが相変わらず、すごい。

その喰いつきにも、確かに一理あって、恐らく冷静に聞かせてもらえば

「ああ、なるほどなあ」

と思うこともあると思うのだが、なんかもうその喰いつき方、感情の撒き散らし方が、どん引きするような異常さというか。

これが大の大人の男が語る言葉か?

というぐらい下品なのね。

もう憎くて憎くて仕方がない、というのが文章から滲み出てるというか。
その憎くて恨めしい孫正義の言動が、あんなに取り上げられて妬ましい・・・という声でも聞こえてきそうな。

個人的に、孫氏は確かにそういう一抹の胡散臭さ、というのは持っていると思ってる。

しかし逆に言うと、アンチの人たちが描きたがるような、単純な人物像でもないと思うのよね。
(でないとあの佐野眞一氏が個人取材の対象に選ばないと思う)

なので、自分としては孫氏が

「どういう思考で、そういうジャッジを、戦略として、選択してるのか?」

そういう部分に凄く興味があるんだけど、アンチの人は、もうなんか自分の中の思い描く像が出来上がってるようで、ブレない、ブレない。(苦笑)

それはそれでいいんだけど(その判断自体は一つの見識でしょう)、あまりにもその嫉妬の滲み出たような、罵詈雑言がみっともなくて。
はっきりいうと、


その表現の仕方が、すごくおぞましい。

とても一人の、人生の看板しょってる

”一人前の男”たちの使うべき言動じゃない。

そっちのほうに目が行ってしまって。

で、これだけ(一応知識人といわれている大人の男たちを)狂わせるというのは、何なんだろうな、と。

そう考えていて、たどり着いたのが、孫正義という人は、ある種のプロレス的なひとなのかな、ということ。

これはミッキー・ローク主演の『レスラー』という映画見たから気付いたんだと思うんだけど、たぶん孫氏の持つある種の胡散臭さ、というのはプロレスのそれと同種のものじゃないか、と。

それを経済評論家とかジャーナリスト、といういわゆる正統派のスポーツ(経済)記者からみたら

「あんなのスポーツじゃない!!八百長だ!」

そう糾弾するメンタリティと同じなのかな、と。

けどこれって根本が間違えてるよね。
だって土俵が違うんだもの。

いわば、プロレスが全盛期で、テレビの露出を独占しまくり、大衆の人気を一手に集めているのに対し「あんなのスポーツじゃない!」といってる空手専属記者みたいなもんじゃないのか、例えていうと。

経済のこととそんなモンを一緒にするな、と怒られるかもしれないけど、本質は同じなような気がする。

だって別に、おおっぴらに大手を振って、法律やぶって、ビジネスやってるわけじゃないしな。
(きわどいところは当然あるだろうけど、それはショービジネスも同じ)

で、そのある種の人気といい、ある種の層へ元気を与える言動といい、ある意味、一時期のアントニオ猪木みたいなもんじゃなかろーかと。

猪木氏自体も、よく見ればけっこう胡散臭いところある方かと思うが、やはりあの人が一時代を築いたひとである、というのは事実だと思うし、ある種の人たちに、夢と希望を与えた存在だったことは間違いがない。

だからね、そういう性格を帯びた人に、いわゆるまっとうなスポーツや、武道の感覚で罵詈雑言を浴びせてるのに近いのが、アンチの知識人・ジャーナリストなのではないか、と。

ちょっと考えてみれば、そういう行為の愚鈍さというのは一目瞭然だと思うのだが、一生懸命吠えている人たちは、吠えること自体に一生懸命で、自分たちのそのみっともなさに気がついていない。

加えて―。

そういう吠えてる人たちって、基本的に「吠えてる」だけで、実際に体張って「噛み付き」にいけないんだよね。

なぜならその人たちは”記者”であって”レスラー”の肉体(ビジネスとして築き上げた実態=一定規模の企業)を持ってないから。

有名になった孫氏のあの

「やりましょう」

という一言は、実はその”肉体”の誇示だ。

”俺はやるよ―で、おまえらは?”

そう言ってるんだな、とこれを書いてて気付いた(笑)。
だから余計に、神経を逆撫でされるように感じる人が、多いのかもしれない。

けど現実問題として、その彼我のギャップに気付いてないのが、みっともなく、見苦しいんだよなあ。

嫌うのもいいし、胡散臭いと指摘するのもいいんだが、なんか結果的にその際の作法で、全員逆にお里がばれるというか。

ここ数日話題になっていた、上から目線で一国の大臣を罵倒して辞任させた記者のメンタリティと、さして変わらないじゃない。

繰り返しになるが、これは胡散臭さとは別の話―。




確か夢枕獏氏だったかと思うが、プロレスは確かにストーリーや仕掛けがある、だからといって、その肉体のタフさ、強靭さというものがフェイクなわけではない、むしろ最も鍛え上げている、的なことをいってた。
(昔読んだ一文なので出典失念)

要は、そういうことだよな。

これに関しては、前述の『レスラー』を機会があればぜひ観ていただきたい。

やってることは愚かなのかもしれないが、その愚かなことに対する真摯さ・真剣さというのは、やはりフェイクではないのだ―。

そして、今この国にいちばんかけてるのは、そういった泥臭い真摯さや、真剣さなんじゃない?

そういうモンがないと、人は動かないし、ましてや感動なんてしないよ?

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