鳥ネタが続いて恐縮だが、最近きづいたこと。
「なぜ、朝になるとスズメはちゅんちゅん鳴くのか?」
あたり前のように「朝になればスズメが鳴いてるもんだ」と思ってますよね?皆さん普通。
自分もこれまで、あたり前のようにそう思っていたんだけど、最近
「ああ、そういうことか!?」
というのに気がついた。
以下あくまでも推論ですよ?けっしてそれが正しいというつもりも無い。
(けど、案外あたってるんじゃないかな)
鳥というのは夜目が利かない、というのはご存知の通り。
そしてスズメというのはたいていからだが小さい。
つまり
「 身体が小さい
↓
食いだめ的なことはしづらい
↓
夜の間は活動できない(=食べれない)
↓
朝が明ける!
↓
ハラヘッター!!(チュンチュン)」
ということなんじゃないかな、と。
昼間スズメをみかけると、たいてい地面でなにかを漁ってる(笑)。
それも良く考えてみると、燃料を補給しては飛び、補給しては飛び、ということを繰り返してたんだな、と。
というのが、自分の仮説。
とっくの昔に誰かが言ってることかもしれないし、実は外れているのかもしれない。
けど、これが”知識”じゃない”知恵”ってもんだよね?
得てして自分たちは本を読んで得た”知識”で物事を語ってしまいがちだが、
数年前から、それが「もの凄く恥ずかしいことだ」と、自分の中で強く感じるようになってきてる。
もちろん、「本を読む」という行為の組み合わせの中から、こういった”知恵”もたくさん出てくる。
だから、恥ずかしいと感じるのは、書いてある事実を、事実のままに右から左へ言ってるだけに過ぎないのに
さも自分が当事者であったかのように語ること
あるいは、そういうアプローチでしかその”知識”を披見できないこと。
それを凄く恥ずかしいことだと体感として感じるようになった。
”知識”はないよりあったに越したことは無いのだが、ただそれを集めているだけでは”コレクター”にすぎない。
自分の生活なり、認識なり
そこを豊かにしてくれる”体感”に変換しえてこそ
”知識”は”知恵”足りるし、価値を持つんだろう。
その”変換”に至るプロセスのことを
”経験”
というのかもしれない。
以前単にアクティブなだけでは”経験”足りえない、と書いたが、そういうことだろう。
「行動」も「知識」も
それは、それ自体単なる”素材”に過ぎない。
そこに”体感”を通した変換のプロセスがあってはじめて
それは”経験”へと変わり、
”知恵”と呼ばれる力となり得る―。
だからいくら「行動」してもいくら「知識」を溜め込んでも
そこに”感じる”ことがなければ意味が無い。
”通り過ぎてる”だけじゃ”経験”にならないんだよ、と。
そういうことなんじゃないかな。
―と、今朝のスズメを見て、そんな朝の気づき(笑)。