tweetのかわりに

標準

tweetしようと思ったが、まとめてたら、長くなったのでこちらに。



人を縛るのは、実は環境でも状況でもなく、自身の我執。


我執というのは、音楽にたとえるなら「こう弾きたい」という発想。
そしてこのとき楽器に相当するのが、自身の身体とか体力。


我執が、楽器としての自身の特性を知らずにいくらなにかを奏でようとしても、その特性に逆らった音は鳴らせない。
クラリネットでディストーションギターの音は出せない。


鳴らない音を鳴らそうとし続けても、楽器が壊れるだけ。


そういった類の我執は無意味。
ただし、その楽器が鳴らしうる音のポテンシャルを引き出そうとするなら、そういう我執の強さが最大の武器となる。


逆に言うと、鳴らしやすい音だけ鳴らしているだけでは、自身の本来持っている音色の可能性を引き出すことは難しい。
省略コードは楽だが、複雑な運指のコードワークでのみ表現できる「響き」があるのは事実。


そして「本来持っているものを最大限に引き出す」という視点に価値を観るのなら、やはりその楽器ならでは、その楽器にしか鳴らせない音を鳴らすのが、もっとも豊かな人生ということだろう。


要はどこまで「深み」を求めるか、自分自身のもつ可能性を「昇華」させたいのか、ということ。


もちろん、省略コードやパワーコードでしか弾けない音もある。


それに徹する、というのもひとつの可能性の追求。
その上で、楽器としての自身が「鳴らせる」音と「鳴らせない」音がある、そのことを悟るのは非常に重要。


得てして楽器と違って人は、自分の好む(と思っている)ものなら、自分にそれが「鳴らせる」と思っているがそれは大きな間違い。頭だけで考えがちな人は特にそう、じぶんのことですかそうですか orz


あともうひとつ大事なことは、楽器としてのアンサンブル―要は他者との関係性の中でそれを捉えるか否か、ということ。


自分ひとりでは鳴らせない音も、他者とのアンサンブルの中では鳴らせる、或いは自分の鳴らしたかった音が二倍三倍になって響き渡る、その醍醐味。


しかしここにも問題があって、その周りとのアンサンブルを気にしすぎるあまり、自身の本来持っている「音色」が掻き消えてしまう関係性―「相生」ではなく「相克」、それははよくない。本末転倒。


だが、ここが楽器と違って、人間の面倒くさいところなのだが、得てして人はそのアンサンブル―他者との関係性から放り出されることを恐れる。加えてそれに伴う具体的な実害もあったりする。


だから、往々にして「ほんとはこんなの弾きたくない」とかいいながら、弾きたくない音を弾いている。
弾きたくないものを弾かなくていい場所を探すこともせずに。


努力することが悪いことだ、とは言わない。
無理しないこと・楽しいことに目を向けることだけが正しいことだなどというつもりもない。
ただ、そのどちらも、実は肝心なことがかけている。


要は、本来自身の持っている「音色」、それを知ること。


ただしそれは繰り返しになるが、往々にして自分の思っている・望んでいる「音」とは違っていたりする。


加えて、自身の生い立ちや、コンプレックスからその音色は「ゆがむ」。
自分の音だ、自分の特性だと思っていたものが、実はそういった自身の「歪(ひず)み」に由来することも多々ある。


その「歪み」がギターやピアノなら調律するなり、オーバーホールすればチューニングは直るが、人は楽器のようには簡単にばらせない。


だからそれすらも実はひとつの「個性」と捉えることはできるのだが、やはり可能であれば、そういう「歪み」を矯正できたほうが、本来持っているポテンシャルは、初めて存分に揮(ふる)えるのは事実。


もちろん、その「歪み」を個性として愛して、それと一緒に墓場まで歩いていくのもよし。
人はそう簡単に、自分の中のそういったものを、捨て去ることはできなかったりする。


ただし、前述したように、本来はそういった「歪み」がないほうが望ましい、という方向性に、目をつぶってはいけない。


なぜなら「自分のもつ可能性を最大限に引き出す」ということを目的に据えたとき、やはりそれは、ある種の現実逃避であることには違いはないのだから。


だから、そこに目線を据えたうえで、ある種の葛藤を感じながら―自分は、自分にしか鳴らせない「音色」を追い求めていく。


それが人生における「まっとうな」スタンスのひとつではないか。


もちろん、そんなものは知ったこっちゃない、なぜそんなものを追求しなければいけないのか、という方もいるだろう。
それはそれでかまわない。


ただ、この世界において、ひとつの真実とは「多様性」である。


こういった反駁するスタンスというのも、ひとつの多様性ではあるが、残念ながらそういった反駁のもたらす複雑さ(多様性)というのは、そのひと本来が持っているものを花咲かせたそれに比べると、明らかに単純で、劣る。


これは動かしようのない現実。
飽きるのだ、それではいずれ。


そういった反駁はある種の若さの特性でもあり、特権でもあるのだが、それをある一定以上、幾星霜重ねた人間がいうのは恥ずかしいことだ。
(これは言ってみればビンテージギターなのに、安物のギター程度の音しか鳴らない時の切なさに似ている)


だから、素直に自身という楽器―鳴らしっぱなしではなく、時にはその弦をはずして、音叉をあて、静かにチューニングし、弦を張り替えることも必要。


そしてチューニングするとき、そのときにはアンサンブルもバックバンドもいらない。
むしろそれは邪魔。


そのときはただ一人、無音の深淵の中に、ただ自身をごろん、と置いて、自身の持っている本来の音―生音(きおん)を聞いてやること―そのことが必要だ。


それを周りの雑音に惑わされずに、じっと一人でやりきれるなら、そのひとはなんの心配もない。


無音の中で、自身の生鳴り(きなり)の音を知り、それと自身のイメージのギャップの中に我執の存在を知り、ネックの歪み、自身の鳴らせる音の有無、鳴らせるとすればどういうアプローチが必要なのか―そういったことが聞こえてくるはずだ、耳を澄ませば、自ずと。


そこへたどり着くにはやはり、「無音」の中へ静かに我が身を沈ませてやらねばならない。
なぜかその「無音」を恐れる人は驚くほど多いのだが。


今の忙しい世の中にあって、それは大変難しいことでもあり、贅沢なことでもある。
それはわかっている。


ただし、どう生きても、自分の人生は自分以外の誰のものでもない―。


それもひとつの、残酷な現実。



tweetのかわりに」への1件のフィードバック

  1. 吉兆

    ああ、これは…何度も何度も読ませていただくことになりそうです。

    静寂の中に。うん。

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