書籍と時代の流れと食玩フィギュアと神様とかw

標準

ちょっと思ったことを簡単にだけ。

今朝、ヤフオクの某出品者の方の出品リストを見ていると大量の書籍が並んでいた。
いわゆる昭和のカストリ雑誌やその他で、よくあるような「業者が手当たり次第」という感じでなく。
個人のコレクターが体系だって集めてたのかなあというのが感じられて。
まあそういうレトロな―けど当時は(恐らく)下品な蔵書の数々。

けれどそういったものが体系だって集められていると、それはそれでひとつの意味を形成する。

特に時代が違うそれは現在の我々から見ると当時の意味と異なって見えて
ひとつの時代性を持ったデザイン―意匠―記号として捉えられる。

そう、いまでこそ美術品として評価の高い浮世絵なんかも
ありていに言えば当時のブロマイド写真なわけだし
春画なんかはもろエロ本だったわけで(苦笑)。
けど今の我々からはそれは違うモノで。

時代は連続しているが
人々の意識は意外とデジタルに変わってゆく。
時の空気を突き詰め徹底していったものほどその変化から取り残されてゆくが
逆にその徹底したが故に、その時代の空気はその身に深く刻み込まれてゆくんだな、と。

そういう意味ではサブカルというのも次代の”カルチャー”の雛形なのかもしれない。
ただし昨今のそれは他に多々選択肢があるのでその”徹底”に弱々しさがあるが。

そんなことを考えたときに、いつもあたまに思い浮かぶのが中野のブロードウェイ。
いや、先日秋葉原に行ったらラジオ会館もそういった店が当然あったんだが
いわゆる食玩というかガチャガチャというかグリコのオマケというか
そういうのが鈴なりに並べられているお店。

そこに並べられているああいうミニチュア造形というのは確実に”それ”じゃなかろうか、と。
(”根付”の純粋な子孫じゃないかという話もあることだし)

ああいったお店はいつも楽しい。
そして思ったが、ああいったものを作り出し、
商売として流通させられるのはたぶん日本だけなんだろうな、と。
(もちろん色塗りとかは中国の職工のお姉さんたちががんばってくれているわけだが)

ああいう―実は”実業”にはなんの役にもたたない―ものに血道をあげ
そんなものですら深く”入り込み”一定のレベルに昇華させる。
いわんやあんな細かいものにあんなムダな高精度。
何の役にも立たない―だがそれがいい(爆笑)
他の国ではとてもムリだ、
バカバカしくて(笑)。

けどそういったところが日本の持っている文化力なんだろう、と。

「余裕のある生き物―なんと素晴らしい」

確かそういったのは右手に寄生した物語世界の”彼”だったと思うが
その”余裕”の幅がその国の潜在的な”豊かさ”なんだろう。
そしてその”幅”を支えているのが某女史のいう
”日本独特のソフトアニミズム”なんだろう。

岩に逢っては岩に神を見、
花に逢っては花に神を見る。

DemonじゃなくてDaemonの世界。
一神教の世界では言葉が分かれてるくせにクソミソだがw

その違いを大切にし、小さな神様たちが活き活きとしている世の中。
そしてその神様たちも時代とともに移り変わってゆく。
時には名前を変え、時には姿を変え。

この歳までいろんなものを見聞きして
この世の中の大事な要素というのは実は数個しかなくて
その代表的なものが

「流動性」 そして 「多様性」 

であるんだろうというのは確信を持っているんだけれども
(あと1要素ぐらいありそうな気がするんだがいまだ見つからず)

上に書いたこととというのはその原則から外れていないんだな。
だから続く、永続する。変わるようにみえて延々と続いている。

それがひとつの秘密。

この秘密を無意識に体現できているモノやコトが
長く続いていく―そのことの秘訣なんでしょう。

変化を恐れず、違いを恐れず。

流れてゆく・変わってゆく。

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