まだら

標準

雨の夕方、ちと買出しに出かける。


行き先はなんだかんだいいつつ最近ご愛用の某激安量販店。

けして「すぐ」という距離ではないのだが、時間だけはある身、

傘さしてぽっくらぽっくら歩いてゆく。


で、先日家賃払いに行った折、大家さんから聞いた道をいってみる。

地図の上では近所だけれど

通ったことのない路。

途中で小学校やコインランドリー、銭湯があることに気づく。
(小学校はその昔路に迷ったとき見たか?)

細い路地をくねくねと抜けて

幹線道路を弓なりに弧を描くわき道に出る。


先日通ったところから逆に目印となるお店を見つける。


見なれた通りを別から歩くと、自分の意識も変わる。
(これが”方違え”の本当の効用だよね?)

道なりに幹線道路へでると少し行き過ぎている。

雨のなか、戻る。

でいつもと違う入り口から。

いつきてもここは店舗に入ってからも迷う(笑)。


当初はこのモノの数と

安さの叩きあいを思ってくるたびにくらーくなっていたんだが

さすがに3回ほどくるとその感覚は麻痺してくる(笑)。

それがいいことなのか わるいことなのか

ほんとうのところは誰にもわからないけれど

少なくともここで生活をたちゆかせ、失地挽回を得る人たちもいるんだろう。


そうかんがえると一概に悪くもないのか、


ただその「叩きあい」はこの安さのメリットをいちばん享受している人たちに

いちばんダイレクトに跳ね返ってくるのであって。


とはいえ、同じ品質・同じ内容の商品が

最寄のスーパーなどより安いのならそれに越したことはないわな。

いまはそんなえらそうなことをいえる立場じゃなし(苦笑)、


貪欲に節約できるものは節約しましょう?


そう、「同じクオリティ」の真贋見分けられる感覚が育っていればいいのだ。

それが育たないままこういうところに慣れてしまう、

じつはそれがいちばん恐ろしいんだが―。


帰り道もいつもと違った道を歩く。


時間がある、ということは

迷ってもいい―

ということでもある。

人生大いに迷うべし。迷いあっての人生ぞ?

幹線道路から側道へ、側道から路地裏へ―

ここでもずいぶんと知らない町並みがある。

知らない交番、知らないスポーツクラブ、知らない質屋(苦笑)。

ただ、

自分の住んでいる町でも丁が変わればこんなに違うのか、と。

ほとんどが安アパート

その中におそらく持ち家と思われる一軒家が宝石のようにぽつり、ぽつり。


すごく、まだら―な感じ。

おそらくこの同じ町内に住む人同士

顔を合わせ、時には挨拶することはあっても

その人生が真っ向から交わることはおそらくないんだろうな―

おそらくこの国のこれから先もそんな感じ、

そうなるんじゃないか。


いまはこの梅雨の薄暮のようにしとしとと雨に隠されているが

日が晴れて太陽が差し込み始めたとき、

そのときみな初めて己が立ち居地の日当たりの有無に愕然とするのではないか―。

コントラストはもっと強まっていく

おそらくこの先、もっと、もっと―

そんなこんなをつらつら考えているといつの間にやら見慣れた町内に。


丁が違うからか、比較的表通り沿いだからか

ウチの近所はそれほどコントラストがきつくない

これは我が身の身内びいきか(苦笑)

けれどそうやって見ると

大家さん宅の植木に抱かれた我が古アパートも

月にウン万なにがしか払っているだけあって豪邸に見える(笑)。

いや事実大家さんいわく


「自分がもし住むことがあったら 気持ちよく住めるように」


とおっしゃってただけあって、中はすごく住みごごちいいのよ?

そう、案外―

そういった「こころづかい」的なもの

そういった表立っては現れない「ソフト」の有無。

それがこれからの世の中の「ゆたかさ」のキーワードになっていくのではないか。

だってそうでしょ?

そうじゃなきゃ機能ではなにひとつ負けてないのに

日本製ケータイがiPhoneの前に総崩れになるわけないじゃん。

次は「感覚」―その時代。

そのためには「○○であるべき」という「べき論」を語る人たちはどんどん置いてかれると思う。

感覚、己の中にもある素直な感覚。

それをどれだけ意識的に「自覚」して、「開放」してやれるか。

そこがきっとポイントになってくるだろうと思う。


そしてそれができる人たちとできない人たち。


それがきっと混在し、互いの境界を際立たせつつも社会としては交じり合ってしばらくいくんだろうな

そう、まだらのように―。

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