備忘録的に

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備忘録的にメモ。
あとから部分的に直しただけのほぼ一発書きなので、論理破綻ならスマソ





ここ数年の日本の景気の悪さとか、雇用問題とかを考えるときに、それを抜きにして語れないことの一つがグローバル化、ということ。

先日、所用で秋葉原まで出かけたんだけれども「ああ、そういうことなのか」といまさらながらに気付いた。

ここ数年で、秋葉原という街はぐっときれいになったし、華やかになった。

単純にそれは素敵なことだと思っていたんだけれども、その見目麗しさは、実はけっこうマズいことを示しているのかもしれない。

自分が秋葉原に行くとき、大抵はひととおりぐるっと街を回ってみるんだが、今回回ってみ改めて気づいたのは

「ああ、もうここは記号だけの街になってしまったんだな」

ということ。

もちろん、街は華やいで、人はたくさん歩いている。
外国からのお客さんも多い。

ただ、これまでこの街の意義を裏から支えていた”実利面”―そこへ行けば、必要なものは大抵揃えられる―その優位性は、いまほとんどなくなってしまっているんだな、と。

もちろん、ここにヨドバシカメラができる前からその予兆はあった。

これだけネットでの物流がカジュアルになってしまうと、大抵のものはネットでそろう。

最初はヤフオク、間をおかずしてamazonまでもが中古を含めて本以外のものを大量に扱うようになってからそれは顕著に加速した。

昔は脚を棒にして、秋葉原中の店を回って安いものを探していたのが、いまやキーワードを入力して数秒。

昔はあったそれらとの価格差も、今はほとんどない―というかリアルなテナントを構える分、実際の店舗のほうが高コストだったりする。(それは当然価格に反映される)

この秋葉原のきらびやかな姿というのは、実はその裏返しだ。

そういう姿に容(かたち)を変えないと、生き残れない。
ただ街としての中身は・価値は、そのきらびやかさと相反するように、ぐっと下がってしまった。


―というのが、前ふり。


今回思ったのは、これっていまの日本の姿ともある意味重なるところが大きいなあ、ということ。

よくいわれるように、日本は製造業的なところでアドバンテージ的なものを失ったとはいえ、まだ完全に優位性を失ったわけではない。

けれど、グローバル化=この秋葉原の例でいうとネット物流―は基本的に止められない。

日本は国内市場が大きいから、というのは良く聞くし、事実でもあると思うんだが、いかんせん、この無差別な叩き合いの波に飲まれる、というのは並大抵のことではないと思う。

良いか、悪いか、でいえば―明らかに良くない、悪い。

ただ、おそらくもうこの開いてしまった蓋は閉じようがない。
なぜなら、自分たち自身がその便利さという名の、毒の林檎をかじってしまっているからだ。

個人的には、生き物としての自分の感覚で、わざわざ海を越え、空を越えてやってくるものが身近にあるものより安い、というのは根本的なところが決定的に間違っている、という警報のようなものが、脳裏では鳴っている。

ただ、前述のように、この流れは止めようがない、おそらく―。

だれかもの凄い支持率を持つ独裁者でも現れて、数百年前のように鎖国でもする、というのであれば別だが(実はそれはわりといい方法であるのは、日本史をみてみるとわかる)、まずあり得ないだろう。

しかし、断片的とはいえ、実は我々はそれに近いことを今までも―そして今も―やってきていた。

それはこんなにグローバル化、ということばで語られる前からありはしたのだ。
人件費の安い国で、国内では到底考えられない安い人件費を使って利益を上げるということは。

海の外なら、それに痛みを感じる必要はなかった―なぜならそれは直接目の前に見えることではなかったから。

しかし、いまはそれが国内でもありありと見える―一例で言えば正規雇用・非正規雇用の問題だ。

雇用に正規も非正規もへったくれもないもんだ、と個人的には思うのだが、どこでも既得権というものは既得権者によって既成事実化されていく。

そう、それはこれまで自分たちが海の向こうの国でも、これまでいけしゃあしゃあとやってきたことでもあるのだ。

こういった側面は一例に過ぎないが、そんな激流のなかに、いま世界の多くの国々は投げ込まれている。

これは、もっと大きな歴史的なスパンで見れば、変革期にはありがちなある種の必然、ということでもあるのかもしれない。

東西冷戦が解消されたように、南北問題―少なくとも部分的にはここに含まれるだろう―が解消されていくための、成長期の体の痛みのようなものなのかもしれない。

ただ、上にも書いたように、どこかこの”生き物としての人間”の範疇を越える動き、というのは、本能的な危機感も覚えはする。

人間は頭と体が得てしてアンビバレンツなもんだが、これもそういう性質のものなんだろうか?

そうやって、世界が地球規模で最適化され、フラット化されていくのはある種の理想ではあるんだが、それは身体的(物理的)な制約からも解放されることを、決して意味しない。

そこを忘れると、強烈なしっぺ返しが待っていると思うのは、自分だけか。

そう考えたとき、日本の強み、というのは、実は言語的なローカル性というものが凄く味方するような気もしている。


今回の震災を通して、あらためて日本人のもつ精神構造の強みと弱み、というのが良くわかったが、明らかにその強みの部分は”日本語”という言葉のもつ性質にある、というのは感じた。

その言葉のもつ性質が、その言葉を使う人のメンタリティを規定し、そのメンタリティが実際の行動を規定する。

実はその影響というものはもの凄く大きい。

こと日本において、その影響力―というか、”日本人”たる要件、というのは物理的な血統や人種を指すのではなく、日本語という言葉と、それがもたらすメンタリティ・その振る舞いがあってこそ成り立つのではないか、と思うほどだ。

で、ここでまたはた、と気付いたのが、実はこの点がこの斜陽を向かえつつあるかのように見える日本にとっての資産にもなり得るのではないか、ということ。

どういうことかというと―逆説的になるが”英語”だ。

日本人のメンタリティは日本語によって作られ、日本人的な行動というのもその恩恵が大きい―ということは、そういった”資産”を日本人はデフォルトで持っているが、逆に言うと”英語”という資産―英語を使うことによってもたらされる精神構造の変化―をまだ十分に発掘できていない、といえまいか。

昨今、楽天やユニクロなど社内英語必須とする企業が徐々に出始めている。

その理由が”世界を相手にビジネスをするため”ということであれば、それほど愚劣な理由はないと思うのだが、”英語によって思考形態を変える”ということが目的であれば、これほど素晴らしいことはない、と思う。

なぜビジネス目的であれば愚劣であるか、というのは少し考えてみればわかる。

繰り返しているようにグローバル化、というのはある種のフラット化―均一化だ。

そこでは他にないもの、他とは違ったものであることが逆説的に価値となりうる―だって均一化指向で総叩きあいをするのがグローバルかなワケだから、相手と同じ道具で勝負するなら”体力勝負”といういちばん脳筋野郎な低偏差値的な競争に向かわざるを得ない。
(いくらかしこそうな横文字ビジネス用語でごまかしても、基本愚劣な競争なわけですよ、スケールやらシェアの取り合い競争というのは)

そんななかで、自分のメンタリティ―それも世界の趨勢からすると、あまりスタンダードではないそれ―をもたらしてくれている”日本語”という財産を捨てるというのは愚劣以外の何者でもない。

ただ日本語は、その構造ゆえに論理的思考の弱さにつながる面がある、というのも一面の事実。
そして、それはこの無差別な殴り合いの世界では、大きな弱点ともなり得る。

そこで”英語”―基本的素養としてではなく、オプションとしてのそれだ。

実はここの”順序の違い”が、ものすごく大きなアドバンテージとなる。

よくある間違いは「世界は英語で回っている、だから英語だ」と、英語だけで全てを解決できるかのように思ってしまうこと。

繰り返しになるが、これは大きな間違い。

あくまでも、自分の生まれ育った国―故郷や風土・言語がもたらすもの―それが育んだメンタリティを核(コア)として、そのうえにインターフェイスとしての英語を載せる。

そういうことができる状況、というのが一番理想的だろう。

そしてもちろん、そういった扱いとはいえ、言語=思考でもある。
英語を使う頻度によって、やはり思考も影響を受ける。

その影響の受け方を考えるとき、核(コア)となる日本語のメンタリティが揺るがないのであれば、その上に英語ならではの論理思考、アクティブさのようなものが加わる。

実は、そういう状態になった日本人、というのはかなりいい感じなのではないか?

日本語のメンタリティのベースは一説によると”慮る(おもんばかる)”だそうだ。
その相手を思いやる心を持った上で、ロジカルに・アクティブに振舞える。

これってある種の理想的な振る舞いの一つになり得ると思うんだけれども。

そういう意味で、これだけ英語に義務教育の大きな時間を割いているにも拘らず、英語をしゃべれない日本人、というのは、ある意味未発掘の鉱脈みたいなもんだ。

と、まあ、そんなことを考えた。

グローバル化という嵐の前にさらされて、蛸壺に再度戻るも一興。

しかしどうせ避けられない嵐なら、そういう風に自らを進化させる良い試練と捉えるのも良かろう。

ただ問題は、日本人がそこで大きく進化できるとしても、グローバル化という実は経済原理主義的な”強欲”が姿を変えたバケモノの、その本質が微塵も変わるわけではないのだが。

ただ、負けたくはないわなぁ、そんな破廉恥なバケモノに―。

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