で、ちょっくら現実のはなし

標準

で、そんなこんなでポエムったあとにはすこしげんじつのおはなし。

※あ、残念ながら自分自身のお話ではないので一部の酔狂な興味津々の方はゴメンナサイw
 (そんなヤツぁいないだろうけど)

まあ、そんなこんなで調整休最後の日だったので外出してみたわけなんですが。
散髪がてらにいつもお参りしている神社までご挨拶にと思いましてえっちらおっちら。
(すんごい遠回りなんですけどね・・・途中稲荷神社を発見・・・もご本尊お参りに行く途中だったので礼儀上断念、いずれご挨拶に伺わねば)

で、ちょっと今後使う可能性もあるかも、とおもって区立図書館の分室をついでに探していってみたわけなんですよ。

いやーやっぱ図書館テンションあがるわwww

これまでなるべく本は自腹切って買うようにしてたけど、これはうまく使わんとそんだな、と改めて認識。とくに立ち寄った分室では歴史・宗教・民俗学的な資料がけっこうあったので血圧上がるwww

しかしテンションあがるのは実はここまで。

でね、けっこう昼間からいらっしゃるわけですよ、利用者の方が。
でね、それみたときに正直ダメ~なオーラが漂ってるわけですよ。

で、それみるとテンションダダ下がりみたいな(泣)

そこにすまう住民に知識への機会均等という意味では図書館てやはり必要なインフラ。
けどいまの社会情勢をなんとなーく透かして映したようなあの光景は正直薄ら寒いもんをひりひりと感じたわけです。

で、気を取り直して家路をたどると途中で某激安・大安売りの代名詞のようなチェーン店の店舗。
在るとは聞いてたけど実際見るのは初めて―ということで、ここはものは試しとスタコラ入ってみる。

確かに・・・安い。

けど以前のような突出した安さというのは感じなかったりも―しかし安いのは安いのだ。

でね、ここでもクラーイ気分。

なぜかはいうまでもなく、こういう”クオリティ二の次、とにかく安く”という叩きあいは悲惨やな、と。
こういう叩きあいはきりがないし、そういうところに巻き込まれてしまったらもうどうにもできんな、と。
とくに日本のようにA型気質で”きっちり””高いクオリティを”とやってきたとこほど本当なーんも太刀打ちできない。

だってそんなクオリティすらあの価格の前ではオーバースペックなわけよ、なぜって?

つぶれたらまた買えばいい―んだから。
(それぐらい買い換えても抵抗のない価格になってしまってる)

ほんでけっこうブランド力あるはずのメーカーがこういうところの競争に否応なくまきこまれてるのよなー。
けど勝てるはずがない。

質を極限まで追求する職人技とか匠の心とかそんな人件費かかること真っ先にいらなくなってる。

質は二の次、価格価格!
まさにこれは利益をゴリゴリ削りあっていく消耗戦だな、と身体で感じて正直ぞっとした。

そしてこれから日本の社会は否応なく高齢化へ向かうわけでしょ。

で、そういった付加価値が武器にならない(もちろんジャンルによるが明らかにそれは他の底上げによってアドバンテージではなくなってきている)→付加価値による利益の創造が見込めない→収入が厳しくなるので激安商品に飛びつかざるをえない→そのジャンルでは価格の安さこそが武器であり、付加価値は武器にならない→先頭へ戻る。

とまあこんな感じの負のスパイラルだわな、正直どうすんだろうね、と。
そしておそらくそういう社会では残酷なほど二極分化が進むと思う。

そういった社会の変動を予期・推測できる知識・思考とそれを前提に行動できる人

そういった社会の変動に関して無知・無関心で、そういったこと基礎知識すら持ち得ない人

―というふうにね。

どんな労働も尊い―突き詰めてみればそうだ。

しかし現実の前ではそれは建前としてのリアリティしか持たない。

そういうことを考えると今後はどんなに小さくてもいいから”価値”を創造できる立場にいないと。

マニュアル・レイバーにはほんと先がない。

特に一番悲惨なのが一見ホワイトカラーにみえるマニュアルレイバーだ。

そんなもんはいずれ人口がもっと減っていくとほんとうに”仕組み”や”システム”でリプレイスされていく。

わざわざ”人”がやらなくてもいいんだ。

そして”人”がやらなくていい仕事しかできない人たちは当然”人”扱いされないだろう。

これが自由主義経済の根本的に持つ性向だ。

さらに始末が悪いのがこの国はその本家・本元のアメリカとちがってその弱肉強食の前提となる”機会の均等”という土台すらない。

いやーほんとどうするんだろうね、この国、この先。

たぶんこういったところから逃れるためにはちゃんと”価値”を”創造”できる本当の意味での”ホワイトカラー”ジョブにその身を置くしかないと思うんだが、たぶんほとんどの人はそこからあぶれるぞ?

ほんでほんとにそういった”価値”を”創造”している外国人にどんどん収奪されていく存在にしかならないだろうと思う。
(いまの発展途上国の労働力というのは突き詰めてみればそうだ―いずれああならざるを得ない)

それを避けるためにはやはり―教育・・・・なんだが。

それもほんとうの”知恵”を身に着ける教育。

日本人は”知識”を振り回す人間はやたら多いが”知恵”を使える人はやはり少ない。
”知恵”というのはもちろん”知識”がベースにあるんだが、そこに行動と経験を重ねなければ出てこない。

あと他人に対する”共感力”―ようするに”人”への「関心」とか「愛情」とか。

これはきれいごとで言っているわけではなくて、我々が人であって人の社会の中で生きている以上、そこに対する思い入れのない人はよほど特殊な分野での才能を持っていない限り成功しないだろう。

これはどんなに仕事で”切れる”といわれる人でも究極はそこに行き着く。

なぜならそういったモンがなければその場でこなした仕事より”上”にはいけないからだ。
しょせん”よくこなせる人”レベルで終わると思う。

そのあたりtwitterをやっているとほんとによく見える。

特になんかこの週末やたらと自営業とかコンサルの人に一方的にフォローされまくったんだが、やはりそれなりに事業や規模を持ってる人たちのそれとガツガツ系の中小の人のそれとではプロフィール欄や名前のつけ方ひとつでその違いがありありとわかる。

やっぱり”知恵”の差なのだ。

”知恵”のない人がいくら”知恵”のある人の真似をしようと思ってもまねできない。

なぜならそこには圧倒的に”人”に対する好奇心の差がありありと見えるからだ。

twitterがこれからさきのビジネスツールとして大きな意味を持ってくるといわれているのはそこだろう。
そこを字ヅラしか捉えられていない人たちのそれは本当に残念なソレだ、見事なぐらい。

この属人性の強さ―つまりその看板の中身の人の重みや深み、それが一発でバレる。

いくら流行の話題を本のうえで見知ってその話題のキーパーソンに振ってもそこではよほどのことがないと化学反応は起きない。

なぜなら現場の”プレーヤー”と”観客”ではその本質的なところでの”容量”が決定的に異なるからだ。

そしてその”容量”というのはその専門性の知識量で決まるのではない、

人間としての深みで決まる。

総じてそうだ。

そう―これはtwitterに限らずこれから先のすべてのことにいえると思う。

ぜんぶ裸にむかれるんだよ、その人の人間としての目方が。

けど筋少の歌詞ではないが

それでも、生きていかざるを得ないなわけだ。自分を含む多くの人は。

よい時代ではある―とは思う。

しかし残酷な時代・・・だ。

そこにあってはもう、僅かながら、ささやかながらではあるが、

喜び、悲しみ、楽しみ、

怒って、泣いて

人としての目方を増やしていくしかないんだろうと思う。

知識じゃない―人としての豊かさ。

それが問われる時代になっているんだろうと思う。

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